「ヒマラヤの高峰」深田久弥著、山と渓谷社ヤマケイ文庫、2021年⒓月刊 2022年1月12日 吉澤有介

       [8000m峰⒕座 初登頂の記録]

著者は、「日本百名山」の著者として著名です。1903年(明治36年)石川県の生まれで旧制一高を経て東京帝国大学文学部哲学科を卒業し、改造社に入り編集者となりました。1935年(昭和10年)に作家として独立、文壇に登場しています。高校時代から山を歩き、山岳関係の多数の著書があります。ヒマラヤの研究にも力を注ぎ、本書はその代表作の一つになりました。1971年(昭和46年)3月21日、茅ケ岳の登山中に脳卒中で急逝しました。

本書は、ヒマラヤ8000m峰⒕座の初登頂までの、人と山との関わりを克明に記しています。1959年から山岳雑誌「岳人」に、10年間にわたって連載されましたが、このほど没後50年に際して、ヤマケイ文庫として蘇りました。山屋の一人としては嬉しい限りです。

著者の論考は、長年にわたって日本人のヒマラヤ志向を鼓舞してきました。世界の最高峰エヴェレストが、イギリス登山隊によって初登頂されたのは、1953年5月29日のことでした。この報告が本国に届いたのは、ちょうどエリザベス女王の戴冠式の前夜だったのです。女王にはまさに最高の贈り物で、イギリスだけでなく、全世界を興奮させた快挙でした。

本書では、20世紀初頭からの、ヒマラヤへの挑戦者たちの記録を調べ、すべてのメンバーと主なシェルパをフルネームで取り上げています。とくに盛んになったのは、1950年代以降ですが、著者はそれらの文献を一つも孫引きをせず、すべてを当事者の実際の記録によって書き留めていました。広範囲の文献渉猟と精読の努力には、ただ驚くばかりです。

ヒマラヤの高峰は、人里からはるかに遠く、その姿を望見するだけでもたいへんです。入山にもその国の許可が必要で、地図もほとんどありません。登山隊は、まず目指す高峰へ数年をかけて偵察隊を送り、周辺の6・7000m級に登って直接観察し、登攀可能なルートを探りました。偵察隊といっても、規模は本隊とほぼ同じで、数百人のポーターによる数か月の大キャラバンになり、時期もモンスーンを避けた5月か10月頃に限られます。ベースキャンプからからは、隊員とシェルパだけで前進キャンプを進め、初登頂を目指しました。

8000m級の登攀は別次元で。烈風の吹き荒れる極寒の氷壁や悪場 、酸素の消耗など、アタックキャンプはまさに地獄の様相でした。極限状態で錯乱を起こした隊員もいます。超人的努力で果たした登頂の栄光の蔭には、雪崩や転落などの多くの悲劇がありました。頂上まであと数百mで撤収した例も多々あります。著者の筆力には、圧倒的な迫力がありました。

日本隊のマナスル(8156m)遠征も苦難の連続でした。まだアメリカの支配下にありながら、京大学士山岳会の今西、西堀らのヒマラヤへの熱烈な思いがありました。計画は着々と進み、ネパール政府の許可をとると、遠征は全日本を挙げて行うことにして、日本山岳会に一切が移管され、その本部は呉服橋にあった会員の辰沼医院の一室に置かれました。著者は、もし後世に日本の山岳史跡が選定されるなら、辰沼医院を有力候補に挙げるとしています。

1952年の試登から2回の挫折を経て、槙有恒を隊長とした日本隊は、56年ついに初登頂に成功しました。同時に参加した川喜田、中尾の科学班も立派な成果を挙げています。ヒマラヤ登山史上最も輝いた時代のことでした。この正月は本書に出会って幸せでした。「了」

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