「日本史サイエンス」播田安弘著、講談社ブルーバックス2020年9月刊  2022年1月10日 吉澤有介

 [蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る]

著者は、江戸時代から続く船大工の家系を継ぐ造船技術者です。三井造船で多くの大型船、特殊船を設計しました。映画「アルキメデスの大戦」では戦艦大和の図面を制作しています。

これまでの歴史学の通説は、その後の考古学的遺物の科学的検証などで、大きく書き換えられることが多くなってきました。歴史の謎には物理法則との矛盾が目立ちます。著者は、歴史学者ではありませんが、自分の目で、それらの謎を科学的に検証することにしました。

蒙古襲来の第一次「文永の役」では、なぜ蒙古軍は圧勝していた進撃を止めて、博多湾の軍船に引き揚げたのかは、大きな謎とされてきました。著者は通説を疑い、あらゆる資料を分析して検証を行いました。蒙古軍出発までのいきさつ、軍船建造に要する木材と森林面積、船の構造と大工の人数、建造期間、乗員、乗馬の部隊編成に兵站補助部隊、出発日、航海日数、気象条件、上陸地点、実戦部隊の上陸方法、戦闘方法などを綿密に検討してゆくと、通説に多くの矛盾が出てきました。まず軍船の建造命令が無茶でした。大型軍船300、小型上陸艇300、水汲み艇600を6か月でつくるのは、どうみても不可能です。半数がやっとでしょう。軍船を復元してみると、実戦部隊は約2,6 万で記録に合います。しかしここで高麗王が病死して、出発が3カ月遅れました。結果的にこれが北西の季節風(この時期の台風はない)の直撃を受けることになったのです。博多湾の戦いでも、水深のある西側に上陸したら防備が手薄で、初めは優勢でしたが、駆けつけた御家人の騎馬部隊との集団戦になりました。著者は双方の戦力を勘案し、ランチェスターの法則で解析して、日本武士団が進撃を食い止めたことを突き止めました。蒙古軍の損害は19%に達し、撤退する外なかったのです。

秀吉の中国大返しは、日本史上きわめて重要な軍事行動でした。通説では本能寺の情報で、秀吉は悲嘆にくれながらも毛利と講和し、2万の軍勢で、備中高松から京都の山崎までの220㎞を8日で踏破し、明智軍を破ったといいます。1日平均30㎞以上の強行軍です。これも兵士が消費するエネルギーを、メッツ値(安静時との比較値)で検証すると、馬も含めた戦闘装備のままでは、食料その他の兵站事情からみて、とてもムリな話でした。途中には船坂峠の難所もあります。そこで可能性を検討すると、秀吉と側近、それに兵士たちの軍装だけを、水軍を動員して海路で姫路まで直送する手がありました。兵たちは空身で走ったのです。秀吉はさらに信長生存の情報を流して、畿内の諸大名を味方につけ、明智勢との決戦の主力としました。疲れ切った自軍は後詰めとしたのです。秀吉の天才たる所以でした。

戦艦大和は、無用の長物だったのでしょうか。ワシントン条約で、日本は数の上では米英にかないません。性能の勝負に出たのです。パナマ運河で制約される米艦を超えた大和でした。まだ艦隊決戦が主流の時代です。大和の建造費は、現在価格で3兆円に達しました。しかし、真珠湾とマレー沖で航空機の優位が実証され、それを逆用した米軍に追い詰められたのです。実戦では、後方にいて敵を叩く戦法に固執して、戦機を逸しました。使いようによっては、もっと働けたでしょう。防御力では、巡洋艦から転用した副砲と、装甲のリベットが致命傷になりました。大和の最大の功績は、戦後日本に遺した高い技術力でした。「了」

カテゴリー: サロンの話題 パーマリンク