「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」関 幸彦著、中公新書、2021年8月刊 2022年1月25日 吉澤有介

—平安時代、最大の対外危機—

鎌倉時代の蒙古襲来は元寇と呼ばれ、未曽有の国難として知られています。しかしそれ以前にも、我が国にはたびたび異国からの侵攻がありました。9世紀の後半から末期(元号では貞観から寛平)にかけて、新羅海賊が盛んに出没しています。(日本紀略)によると、新羅海賊は対馬から博多や肥前、肥後まで侵攻し、略奪、暴行、殺傷を繰り返しました。

当時の東アジア情勢をみると、大唐帝国が衰退して各地に反乱が続出していました。朝鮮半島では、新羅が高麗に圧迫されて治安が乱れ、大飢饉もあって民衆が苦しんでいました。そこで新羅は半ば公認の海賊として、日本の略奪に向かったのです。一方国内情勢では、蝦夷戦争で帰順した俘囚の処遇問題が浮上していました。その解決策として、乗馬や騎射に巧みな俘囚の軍事力を、西国の警察・軍事力に転用したのです。律令国家から王朝国家への転換期の苦肉の方策で、統率には、蝦夷戦争や将門の乱などで活躍した軍事官僚が登用されていました。この防衛戦略で対馬の戦いで勝利し、新羅海賊を撃退することができました。

しかし半島の高麗も安泰ではなく、北方から南下する契丹・女真の勢力に悩まされていました。とくに女真は、今の旧満州からアムール川流域、沿海州にいて、日本海沿岸に沿って高麗を襲い、その勢いで日本に来寇したのです。女真を東夷とみて刀伊と表記しました。

刀伊の来襲は、寛仁3年(1019)のことでした。対馬、壱岐に突然兵船50艘が現れ、殺人、放火して両島を攻略し。さらに博多や松浦に侵攻したのです。急報を受けて大宰府権帥であった藤原隆家は、武者や住人勢力を動員して懸命に防戦しました。その被害の惨状や激戦の経過は、多くの史料に詳細に記録されています。飛脚便は相次いで都に到達しました。

この時代は、藤原道長の絶頂期でした。天皇は一条、三条、後一条で、まさに源氏物語の「王朝」期です。語感は優美ですが、実態は激しい政争の時代でした。中関白家の隆家は、父道隆の死去によって叔父道長との政争に敗れ、太宰権帥に左遷されていたのです。しかし、逆にこれが幸いしました。隆家の姉は一条天皇に入内した定子です。定子に仕えた清少納言は、「枕草子」でよく隆家を語っています。隆家は貴族としては規格外の武勇の人でした。

刀伊襲来の報に、都の貴族たちは先例によって、周辺の社寺に祈祷するばかりでしたが、現地では、強直勇猛な隆家が、有力武者を率いて、積極的に果敢な攻撃を命じました。かっての軍事官僚や俘囚の末裔たちの奮戦は、外敵に多大の損害を与え、見事に撃退したのです。新羅海賊との戦いの経験も役立ちました。矢戦に強く、とくに鏑矢の効果は絶大でした。

精兵たちは、刀伊軍を追撃しましたが、隆家は新羅・高麗の境に入ルベカラズと訓令しました。彼には明確な国境意識があったのです。高麗も女真(刀伊)と激しく対立していました。刀伊に拉致された虜民たちは、高麗に救われて帰国し、貴重な証言を遺しています。

外敵を撃退はしたものの、その衝撃は王朝外交や、海防政策、さらに軍制に大きく影響しました。律令国家では徴兵制でしたが、王朝国家では傭兵制に近くなっていました。功臣たちは「ヤムゴトナキ武者」と賞されて、地方の守や掾などに登用され、やがて武士が誕生してゆきました。国内の疫病流行も続いて、平安時代は激動期に突入していったのです。「了」

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