「教師宮沢賢治のしごと」畑山 博著 2019年11月17日 吉澤有介

小学館文庫2017年2月刊   著者は、1935年に東京で生まれ、旋盤工などを経て放送作家となり、1972年に芥川賞を受けています。のち宮沢賢治の研究に従事し、2001年に没しました。本書は、60数年前、花巻農学校で教壇に立った賢治の、幻の授業を何としても再現したいという、著者の熱い思いから生まれました。賢治は、今に続く型にはまった授業法に真向から反対して、イメージと、ゆとりと個性を尊重する、はじけるような授業を実践していました。著者は、すでに80歳を超えた教え子たちを丹念に探し訪ねて、貴重な証言を聞くことができたのです。

賢治は1921年(大正10年)12月に、まだ県立になっていなかった稗貫農学校(のちの花巻農学校)に奉職しました。その前に母校盛岡高等農林の関豊太郎教授から、助教授への推薦を受けながら断っていました。謙虚さだけでなく、教授と波長が合わないこともあったようです。賢治の深い迷いの時期でした。最愛の妹トシが母校花巻女学校の教師として颯爽と登場した時期でもあります。そこにかねて私淑していた畠山校長からの要請があったのです。全校生徒70人の学校に、丸坊主でスーツ姿の教師賢治先生が誕生しました。

生徒たちの印象は、一人ひとりに親しく声をかけてくれる、わかりやすくてとても人気のある先生でした。授業のルールは三つだけ、
①先生の話をしっかり聞くこと、
②教科書は開かない、
③頭で覚えるのではなく、身体全体で覚えること、
そのかわり大事なことは何回でも教えるから、でした。初めのころのある日、先生は苗代神事の話をしました。中国雲南省のあたりで稲は極秘の宝物で、持ち出し禁止でしたが、それを秘かに日本に入れた神が稲荷様だったこと。水の取り入れ口の田を「うなん田」というのは雲南田のことなどをあげ、さらに注連縄の本体は雲、下がっている藁は雨、白い御幣は稲妻だといいました。とにかくこの地域の風土を学びなさい。東京の人の作った教科書は使うなと教えたのです。

賢治先生の担当科目は、英語、代数、化学、気象、作物、土壌、肥料、それに実習がありました。代数では、いきなり応用問題を出して、具体的な数値で生徒に考えさせ、そこからジョークを飛ばして抽象的な方程式へと進めました。英語でも教科書は使わず、ヒヤリングと話し方が中心でした。生徒をA、Bの2班に分け、スペリング競争として単語のしりとりをやりました。辞書をみてもよく、黒板一杯に展開させるのです。またできるだけ文字数の多い単語を出しあう遊びも人気がありました。両軍のタネが尽きたところで賢治先生は、決定版を出します。Smilesと。なぜなら、SとSの間が1マイルもあるよと笑わせました。

土壌学についても、まず地球の誕生から生物が出現する物語を詩のように語り、岩が風化して土になり、生きものが生まれて死に、土の中に瞑る、その悠久の繰り返しだと説きます。古生代から中生代へと植物や動物の変遷をあげ、話は恐竜の絶滅にも及びました。

実習では、よくイギリス海岸にゆきました。青白い凝灰岩の泥岩が北上川に広く露出していて、動物たちの足跡もありました。遊びながらここはもと海だったことを教えたのです。

賢治先生は、演劇活動にも熱心で、国語の時間には出来たての「風野又三郎」や「銀河鉄道の夜」を自ら朗読しました。感動した教え子たちは、何と幸せだったことでしょう。「了」

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