「フォッサマグナ」藤岡換太郎著 2019年9月25日 吉澤有介

講談社ブルーバックス2018年8月刊  著者は、東京大学理学系大学院出身の地球物理学者です。以前に「山はどうしてできるのか」や、「「三つの石で地球がわかる」などをご紹介したので、皆さんもおなじみでしょう。

本書では、日本列島を東西に分ける巨大構造であるフォッザマグナの謎に、あらためて真正面から取り組んでいます。それは世界に例のない、とんでもない怪物でした。

1875年(明治8年)、のちに「日本地質学の父」と呼ばれたドイツ人の地質学者エドムント・ナウマン(20歳)が来日しました。その年の11月、早くも単独で最初の地質調査旅行に出かけます。中山道を進んで、野辺山から見た南の風景に言葉を失いました。眼下の釜無川の向こうに、2000m以上の高さの駒ケ岳などの連峰が壁のように聳え立ち、その左奥にはさらに高い富士山の威容がありました。こんな構造は見たことがない。この巨大な構造がなぜできたのか。彼はその後2度も調査し、この地形に、ラテン語で大きな地溝という意味の、「フォッサマグナ」と名付けました。それが今でもなお、謎に満ちているのです。

「フォッサマグナ」とは、本州中央部を、日本海側の糸魚川から、太平洋側の静岡市清水付近まで、南北に横断する大地溝です。地質的にも、この地域の両側では約1~3憶年の古い岩石なのに、フォッサマグナの内部は約2000年前の新しい岩石でできていて、その基盤までの深さは地下6000m以上もあります。かっては、それだけ深い海だったのでしょう。

本州はここで逆「く」の字に折れ曲がり、西日本を九州、四国、紀伊半島と走る中央構造線が、ここで突然消滅します。これは関東山地でまた復活して、南へ曲がっていました。

それにこのフォッサマグナは、西側だけ明瞭な断層の壁があるのに、東側ではその境目があいまいで、柏崎から千葉県あたりまで?と漠然としています。また諏訪湖付近で、北と南の構造が違っていました。そこでフォッサマグナの成因についての議論が分かれたのです。

本州が日本海を移動して南下したときに、伊豆・小笠原島弧と衝突して、大きな断層ができたという説と、本州はもともと二つの島弧だったものが接合したところに、伊豆・小笠原島弧が衝突したという説です。大陸移動説もプレートテクニクスもない頃のことでした。

そこで著者は、最新の研究で大胆な推理を展開します。約1憶年前にはユーラシア大陸の東縁にへばりついていた日本列島は、1700万年前ころから移動を開始しました。地球内部からのホットブルームの上昇によって日本海が生まれ、年間35cmの速さで拡大したのです。深さは4000mに達し、本州の大地はTの字に割れて、そのタテ棒の断裂が北部フォッサマグナになり、さらに太平洋に達します。ここで東北日本は反時計回りに、西南日本は時計回りに回転しました。日本海の拡大は、200万年でブルームの枯渇で停止し、北部フォッサマグナは堆積物で埋まり、東北日本から活発な海底火山が入り込みます。同じころにフィリッピン海プレートが、伊豆・小笠原島弧を北に押し上げて本州に衝突し、丹沢山地や伊豆半島が生まれました。列島は東西に激しく圧縮され、南部フォッサマグナの西側で赤石山脈が3000mに隆起します。1500万年前に同時に起きたこのプレートの動きが、南海トラフとともに房総沖に集まり、海溝3重点を形成して、この全体構造を支えていたのです。「了」

(注)左図のフィリッピンプレートの動きの→だけ書き足しました。

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