「クモの糸でバイオリン」大崎茂芳著 2019年9月18日 吉澤有介 

岩波科学ライブラリー2016年10月刊  著者は、大阪大学理学部出身で、島根大学教育学部教授を経て、奈良県立医科大学医学部教授、現在は名誉教授です。専門は生体高分子学で、肺、骨、皮膚などの生体コラーゲン繊維に注目して、新しい皮膚移植法に取り組んでいます。クモの糸の研究は副業でした。

クモとのお付き合いは、今からおよそ40年前にさかのぼります。博士課程を終えて、「粘着紙」の研究をしていました。「粘着」とは、一旦くっついても剥がれるという現象です。そこでふとクモの糸に気が付きました。その物理化学的現象は、まだ世界で誰も研究していません。野外でクモの生態を観察し、苦労して実験用のクモの糸を取り出して調べてみると、そこには衝撃的な特性がありました。著者は、すっかりクモの糸の虜になったのです。

クモの巣の構造は、主に獲物を捕らえる粘着性のある横糸と、巣の骨格をつくる経糸(牽引糸)でできています。この経糸が、クモがぶら下がって逃げるときの命綱ともなる、柔らかくて強い糸でした。電子顕微鏡でみると、非晶域のなかに薄いシート状の結晶域が、島のように浮かんでいます。250℃の高温でも安定で、紫外線には絹と違ってかえって強度をあげました。破断応力はナイロンの数倍もあります、その秘密は今なお究明されていません。

著者は、クモに気持ちよく糸を出してもらうために、野生のクモとのコミュニケーションの環境づくりに5年もかけて、そのポイントを体得しました。糸巻きもすべて自作です。

2006年には、19万本のクモの糸を束ねて吊るしたハンモックに、65㎏の著者が乗ることに成功しました。「所さんの目がテン」の企画です。その後124㎏の同僚教授まで乗せました。ダウンタウンの特番でも、6人を乗せた2tトラックを牽いて見事に動いたのです。

2009年、体調を崩して入院した著者は、バイオリンの音に魅せられました。そこでクモの糸をバイオリンの絃にという、夢のようなアイデアが浮かびました。それまで全く触れたことのないバイオリンですが、「本業」のほうで、皮膚などのコラーゲン繊維の力学特性やマイクロ波の共振で、周波数特性解析も手掛けていたので、少しは勝算があったのです。

早速バイオリンを購入し、大阪音楽大学のバイオリニスト松田先生に、弦について詳しくお聞きすると、E線からG線までの4本の弦には、ガットやスチール、ナイロンなどがあり、それぞれ工夫をこらしてあります。それらと比較するには、まず自分で弾いてみなければなりません。著者はレッスンに通うことにしました。6年間の試行錯誤の末に、クモの糸の弦ができました。A線では、約1mの糸3000本を束ねて左に捻じり、それを3本合わせて右に捻じります。ほかの絃も同様につくりました。2010年、楽器店の防音スタジオでICレコーダーに録音し、パソコンソフトでフーリエ変換し、パワースペクトルをとると、強い倍音が多い、際立った特色が現れました。つまり音の深みが出る豊かな音色だったのです。

プロの松田先生の評価は最高でした。論文を物理学のトップPRL誌に、松田先生のストラデイバリウスによるチャイコフスキーのバイオリン協奏曲の一部を、音声ファイルにして添付して投稿しました。審査の末に論文が載ると、クモの糸の音色が世界を興奮の渦に巻き込み、世界中から取材が殺到しました。「副業」が、まさに大化けした瞬間でした。「了」

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