「ホメロスの世界」  2026年8月17日 吉澤有介

藤縄謙三著、講談社学術文庫、2026年6月刊  著者は、1929年新潟県生まれ、京都大学文学部卒、同大学院文学研究科博士課程に進み、大阪府立大学助教授、京都大学文学部教授。京都女子大学文学部教授などを歴任しました。専門は古代ギリシャ史。著書に「ギリシャ神話の世界観」、「ギリシャ文化と日本文化—神話・歴史・風土」、「歴史学の起源—ギリシャ人と歴史」ほか多数があります。
本書の初版は1965年、著者の第一作で、ホメロスの時代を、当時の社会状況と関連づけて鮮やかに描き出していました。そのオリジナリテイは60年後の今日もなお輝いています。
古代のギリシャ人は、自分たちの遠い過去を英雄伝説として記憶していました。その英雄時代に起きたトロイア戦争を、ギリシャ最大の詩人ホメロスは、二編の雄大な叙事詩として残しました。「イリアス」は、トロイア戦争でアキレウスが戦線を離脱してから復帰するまでの51日間を、「オデユッセイア」は、戦争終結後10年目に、イタケの王が祖国に帰還する物語を描いた叙事詩です。ギリシャ人はみな、これを事実と信じて疑いませんでした。
しかし、近代の西欧人の多くは、ここに史実が含まれているとは考えていなかったのです。
ところがこの叙事詩を信じたドイツ人のシュリーマンが、苦労の末にトロイアの遺跡を発見しました。遺跡の状況は、ホメロスの詩編とほぼ一致しています。史実が確認されると、「エーゲ海文明」の全容が明らかになってきました。トロイア戦争は、クレタ島の穏やかなミノア文明に続く、青銅器時代のミュケナイ文明の、最盛期での出来事だったのです
王宮は豪華でしたが、激しい戦闘的な時代で、城壁を巡る攻防戦で、多くの英雄が活躍しました。
ホメロスの生涯は、殆ど知られていません。詩編の成立はトロイア戦争の時代から、約五百年後のBC8世紀ころとみられます。この時代は、吟遊詩人が諸国を巡っていました
この奇跡的天才の詩編は、口承によって衆人の前で朗誦されてゆきました。文字はすでにありましたが、ここまで詳細に記述はできません。創作に際しても、文字はかえって邪魔だったことでしょう。叙事詩は口頭で歌うものだったのです。万葉集は良い例でした。
「イリアス」では、トロイや戦争が語られます。戦争の原因は、絶世の美女ヘレナでした。スパルタの王妃でしたが、トロイアの王子パリスと駆け落ちします。アガネムノンを総大将とするギリシャの大軍が、神々の支援のもとにトロイアへ遠征し、ヘレナの奪還を目指しました。しかし、トロイアの城壁は堅固で、攻防戦は10年も続きました。無数の戦士たちの血や屍、遺族の嘆きの中で、青銅の武具を備えた英雄たちの活躍が語られます。死を賭して戦うのが英雄の条件だったのです。強者アキレウスも、総大将アガネムノンと確執を抱えて、一時は戦線を離れましたが、やはり戦場に戻って戦死しました。祖国を守るトロイアの王子ヘクトルの戦死は実に凄惨なものでした。その丁重な火葬で、「イリアス」は終わります。
「オデユッセイア」は、木馬の計でトロイアを陥落させたイタケの王、オデユッセウスの物語です。帰還は、海神ポセイドンの許しがあってのことでした。しかし、社会史的に見れば「イリアス」との間には、約四百年を経過しています。それでも、この二つの詩編の言語や文体は同じでした。ともに人間の物語とした、ホメロスの世界観の現れだったのです。この二つの詩編は、言語や文体の特徴が共通で、遠い過去のことなのに、あまりにも豪華で雄大だったのです。「了」

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