「人事の古代史」—律令官人制からみた古代日本—  2023年4月23日 吉澤有介

十川陽一著、ちくま新書、2020年6月刊
著者は1980年生まれ、慶應義塾大学大学院文学研究科で博士(史学)、山形大学人文社会科学部准教授を経て、現在は母校の文学部准教授です。著書に「日本古代の国家と造営事業」、「天皇側近たちの奈良時代」(ともに吉川弘文館)があります。
日本の古代国家は、律令を基本法典とする、律令国家として成立しました。天皇を頂点とした中央集権国家です。全国に、国、郷、里の行政区分をつくり、戸籍を作成して民衆を把握して、税や労働力、兵役などを徴発しました。これらの膨大な作業を遂行したのが、官人と呼ばれる人々です。古代日本は、六世紀末ころから中国の制度を取り入れて、国家整備をすすめてきました。大宝元年(701)、大宝律令を制定し、律令国家としての形態を整えました。元日には文武天皇が大規模な朝賀の儀を行い、3月には人事が発令されています。
律令国家は、いわゆる二官八省を中心にした文官組織と、一台五衛府を基本とした武官組織で構成されていました。その中枢が首班の太政大臣(天皇の師範でもあるので、適任者がいないときは空席)で、その下に左右大臣と4人の大納言が議政官として国政を担いました。のちに中納言と5人の参議が加わっています。事務方では、少納言がいて、太政官印や天皇御璽など扱い、天皇と臣下の間をつないでいました。通常は、左大臣が首班でした。

藤原宮における最初の人事は、左大臣正二位多治比島、右大臣従二位阿部御主人、大納言として正広参大伴御行(まもなく死去)、正三位石上麻呂、正三位藤原不比等、従三位紀麻呂でした。有力豪族から代表者が一人ずつというバランス人事になっています。律令制以前の、豪族による合議の名残でした。このうち不比等は7年後の和同元年(708)に右大臣に昇格しました。左大臣に石上麻呂がいましたが、すでに高齢で、実質の首班は不比等でした。不比等の息子4人が次々に参議となり、このバランスが崩れます。遠因は、長屋王の変にありました。当時長屋王は正二位左大臣として実質の首班でしたが、天平元年(729)、聖武天皇への謀反との密告により即日死を賜わり、有力対抗馬がほとんど消えていたのです。
官人たちの身分秩序は、七世紀までの真人、朝臣、宿禰などの冠位から、正一位などの位階になりました。五位以上が貴族で、天皇が授与します。貴族は奈良時代前半には約150人いました。勤務評定で昇進します。大学寮で貴族の子弟を養成しました。ここは下位の子弟にも開かれていましたが、やはり家柄は重く、内舎人などの昇進ルートに早く乗りました。
位階で、それぞれ長官、次官、判官、主典(かみ、すけ、じょう)などの官職のポストにつきます。しかし褒章などで位階だけが次第に増え、ポストにつけない官人は、位階のみの散位になりました。貴族の従者などでポストを待ちました。律令官人の給与は職務給ですが、五位以上の貴族には身分給として食封(領地)も与えられて、経済的特権がありました。
その貴族の地位も、度々の政争に巻き込まれたりして安泰ではありません。大伴家持は長く従五位下に据え置かれ、ようやく中納言従三位になりましたが、死後、藤原種継暗殺連座を理由に除名されました。大伴氏はさらに応天門焼失事件で、伴大納言が失脚して衰えます。藤原氏も仲麻呂の乱で大きく揺れました。身分とリスクは、表裏一体だったのです。「了」

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