「幕末の近代国家・佐賀藩の歩み」三好章夫著、2021年5月7日 吉澤有介

国を開き国を守る、日本の源流を探る

22世紀アート、2021年4月刊

著者は、1939年佐賀に生まれました。経歴は不詳ですが、幕末を専門とする歴史家のようです。本書では、幕末期に35万7千石の佐賀藩が、どのように近代化をすすめて、明治維新の実現に寄与したかを主題としていますが、それにとどまらず、幕末における開国と国防についての幕府と諸藩の動きを、多くの史料を駆使してその実情に迫っています。

2008年、幕末期の産業遺産として、佐賀藩三重津海軍所の遺構の発掘が始まりました。文献調査も進められ、当時の海軍教育、洋式船の建造と修理、運用訓練の施設であったことが明らかになったのです。その後国史跡に指定され、明治日本の産業革命遺産の一つとして、2015年7月ユネスコの世界文化遺産に登録されました。これこそ司馬遼太郎が著書「アームストロング砲」で、佐賀藩が軍隊の制度も兵器も、ほとんど西欧なみに近代化されていたと述べていたものでした。それは藩主鍋島直正による、強烈な開化政策の表れだったのです。

そのきっかけは外国船の来航でした。1642年(寛永19年)、鎖国政策を完成させた幕府は、長崎を唯一の対外交易の窓口とし、黒田藩と佐賀藩に隔年交代の長崎警備を命じました。

海外情報は「蘭学」として流入していましたが、18世紀末の産業革命以降、外国船がしきりに来航するようになりました。そしてついに1808年(文化5年)英国フェートン号が、長崎港に侵入して狼藉を働く大事件が起きたのです。当番であった佐賀藩は、大きな打撃を受け、洋式軍艦の建造と大砲の鋳造が喫緊の課題となりました。1840年(天保11年)の阿片戦争勃発をみた幕府も、急遽海防強化に転じました。その年、佐賀藩は自力で小型洋式帆船をつくり、その図面をもとに幕府も「晨風丸」を建造しました。ここで1853年(嘉永6年)のペリー来航を迎えたのです。幕府は即座に大型洋式軍艦の建造を決め、佐賀藩から雛型や図面の提供を受けて、僅か8カ月で「鳳凰丸」(長さ40m、3帆柱、550トン)を竣工させました。すでにかなりの技術力があったのです。日本の大型軍艦の嚆矢となりました。

しかし世界の趨勢は、すでに蒸気軍艦、スクリュー推進に移っていました。1860年(万延元年)の遣米使節団の情報や、下関戦争、薩英戦争の手痛い敗戦により、幕府、諸藩は一転して、蒸気軍艦の輸入に向かいます。咸臨丸、朝陽丸などがオランダに発注されました。当時の蒸気船一隻の価格は、4万両(約40憶円)もしたそうです。幕末期における我が国の洋式船は、幕府34隻、諸藩(24藩)76隻、合計110隻が輸入されていたといいます。

蒸気船の国内生産も続いていました。薩摩藩では、嘉永年間に技術書の翻訳を始め、4年後の1855年(安政2年)には「雲行丸」の試運転を行っています。日本人だけの知識と技術で外輪蒸気船を完成させ、オランダ人の教官を驚かせました。実用の第1号は、佐賀藩の「涼風丸」でした。1865年(慶應元年)藩主の御座船として活躍しています。近年その航海日誌が発見されました。その後の佐賀藩は、製鉄、機械加工などの基礎技術の強化に努めています。パリ万博にも、佐野常民ら7人を派遣し、鍋島焼を出品して好評を博しました。

1871年(明治4年)明治新政府による岩倉使節団には、旧佐賀藩主鍋島直大も参加しています。「特命全権大使米欧回覧実記」は、佐賀藩士久米邦武の大きな功績でした。「了」

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