「幕末の近代国家・佐賀藩の歩み」(その2)2021年5月12日 吉澤有介

佐賀藩と鍋島直正

幕末における佐賀藩の、工業近代化を導いた鍋島直正は、1814年(文化11年)、第9代鍋島斉直の嫡男として江戸屋敷で生まれ、教育係古賀穀堂の強い影響を受けて育ちました。古賀は 藩校弘道館教授として学政改革を行い、①国家に貢献する人材の育成、②誰でも学問できる環境つくり、③積極的に留学させる、④蘭学の奨励、という驚くべき先見性を唱えています。1830年(天保元年)直正は第10代佐賀藩主となり、藩政改革を断行しました。

直正は「葉隠」を、もはや時代遅れで役には立たないとして、医学寮、蘭学寮、さらに英学塾まで開設して、人材育成に力を入れました。自らも長崎で、オランダ軍艦「パレンバン号」を31名の家臣とともに訪れて、終日熱心に蒸気機関、海軍、砲術、造船術などについて質問を繰り返し、その情報をもとに、幕府に海軍創設を進言しました。さらに藩士佐野常民に、長崎で小型蒸気船を借り受け、研究させています。そのチームの中には、何と田中久重の名前がありました。後に東芝の前身「芝浦製作所」を創設した、あのからくり儀右衛門です。筑後国久留米の生まれで、京、大坂で種々の発明をしていましたが、佐野常民の推薦で精錬方に所属して、1855年(安政2年)に日本で初めての蒸気船の模型をつくりました。

直正はまた藩独自の産業振興として国産方を新設し、火薬、磁器、石炭、櫨、楮、海産物などを販売しています。交易によって藩の財政を立て直し、軍事力の強化をはかりました。

鉄製大砲の鋳造では、伊藤玄朴らが翻訳した「鉄砲全書」を頼りに1850年(嘉永3年)、築地に日本初の反射炉を独自に建設し、2年間で4基を完成させました、幾度も失敗を重ねながら技術を磨き、24ポンド、36ポンドのカノン砲の鋳造に成功しています。これらの大砲は、長崎周辺に配置されましたが、ペリー来航直後、幕府から江戸湾警備のお台場用として200門の大量注文が出されました。佐賀藩では、直ちに多布施に反射炉2基4炉を建設し、3年後には50門の台車付きカノン砲を幕府に納入しました。さらに150ポンド砲3門を献納し、品川台場で直正立ち合いのもとで、試射会が行われました。西欧のレベルに達した反射炉には、長岡藩の河井継之助や、ロシアのプチャーチンも見学に訪れています。

1866年(慶應2年)には、2門のアームストロング砲が完成しました。しかしこの間の直正の厳しいパワハラで、藩士の一人が発狂し、同僚を殺害するという悲劇も起きています。

この佐賀藩のアームストロング砲の威力は、上野彰義隊を一瞬で壊滅させ、上野戦争は終わりました。大砲製造の最盛期は、1857~1859年(安政4~6年)で、青銅、鉄製合わせて412門を製造しています。佐賀藩は、他藩への技術援助を惜しみませんでした。水戸藩や薩摩藩、それに韮山の反射炉を指導しています。佐賀藩の技術が圧倒的に高かったのです。

ペリー来航に際して幕府は、直正や勝麟太郎の進言により、1855年(安政2年)に長崎海軍伝習所を設立しました。佐賀藩は最も多い48名の藩士を派遣、留学させています。田中久重もその一人でした。「咸臨丸」で蒸気機関の知識を学びましたが、この時の日本人の技術吸収能力の高さは、オランダの教官を驚かせるほどでした。直正は、維新を目前に病に倒れました。しかし彼が育てた人材は、近代日本の工業技術力の礎を築いたのです。「了」

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