「触れることの科学」デイヴィッド・J・リンデン著、岩坂彰訳 2019年5月16日 吉澤有介

なぜ感じるのか、どう感じるのか      河出文庫2019年3月刊
著者は神経科学者で、ジョン・ホプキンス大学医学部教授です。主に記憶のメカニズムを研究しながら、一般向けの解説書にも力を入れています。人間の五感では、触覚が最も根源的な感覚です。目や耳が生まれつき不自由な人でも、周囲の助けがあれば、幸せに生きてゆくことができますが、触覚を持たない人は、痛みも感じないので生きてはゆけないのです。

英語のfeelは、もともと触覚を指す言葉でした。それが現代では、感覚一般や感情までも表しています。触覚の知覚は極めて総合的で、硬さや柔らかさ、暖かさや冷たさは、第一印象での人物評価をも形成します。暖かいという身体感覚は、人類の進化の歴史でも、安全と信頼につながっています。その要因は、幼少期の母親に触れられた経験にありました。

ラットによるある実験では、出産直後に、やさしく舐めたり、グルーミング する母親に育てられたグループと、そうでないグループを比較すると、後者の子供が成長したとき、前者のグループと比較して、空間学習能力が低く、ものを怖がる傾向がありました。成熟後もストレスに対するホルモン反応があり、その子は母親になっても子供の世話をしません。

人間の胎児でも、最初に機能し始める感覚は、触覚とみられます。それは、妊娠の第8週前後のころで、胎児の脳活動が始まり、その後も発達を続けて、反射行動から意図的行動へと進んでゆきます。未熟児などで、母親との触れ合いが不足すると、深刻な発達障害になります。しかし、早期に触れ合いの機会を増やしてやると、容易に修復できることがわかりました。カンガルーケアと呼ばれています。触れられた感覚はすでに感情に満ちていたのです。

皮膚は、身体と外界とのインターフェースで、接触の情報を受けると同時に、外界の危険を察知します。そのために特殊な免疫系があります。また皮膚は有毛と無毛の別があり、大部分は有毛で、無毛部位は、手のひら、足の裏、唇、生殖器の一部だけです。ともに基本構造は同じで、真皮と表皮からなり、表皮の細胞は50日ほどで、すっかり入れ代わるのです。

皮膚には、触覚の専用感覚器として、4種類のセンサーが組み込まれています。質感を識別するのは「メルケル盤」という細胞で、それぞれが神経線維につながり、電気的スパイクで脊髄から脳の触覚野へと伝達されます。メルケル盤は、指先に特に集中して、高い解像能力を持っており、乱雑なポケットからでも目指すコインを探り当てます。そのコインをつまむ力には「マイスナー小体」が働き、投入口では「バチニ小体」が微妙な振動を感知してコインを投入します。ハンドルをひねる動作は、「ルフィニ終末」の役割で、皮膚の横方向への力に敏感です。複雑な触覚情報は、並列処理で行動への別の流れに分岐してゆくのです。

なお指は小さいほど敏感で、各人の感覚経験によっても変化します。バイオリニストは、左手の指で常に弦を抑えてビブラートをかけ、鋭い触覚で敏捷に動かします。一方、弓を持つ右手は、それほどの触覚は使いません。その脳をスキャンして、対応する感覚野の面積を測ったら、左手は右手の1,8 倍もありました。著者はさらに、異性間の触れ合いにも立ち入っていますが、残念ながらここで紙数が尽きてしまいました。本書でご覧ください。「了」

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