「日本神話はいかに描かれてきたか」及川智早著 2019年5月13日 吉澤有介

  • 近代国家が求めたイメージ   新潮社2017年10月刊

著者は、早稲田大学大学院文学研究科博士課程を経て、現在は帝塚山学院大学教授。専攻は日本神話や古代説話とその受容史で、古事記関連の多くの著書があります。

我が国は、西暦1868年の明治維新で、江戸から明治へと時代が移り、いわゆる近代化が始まりました。しかし思想、教育から政治まで、逆に「古代」に立ち返ることになったのです。王政復古の流れは、天皇制の確立を目指し、古代の天皇の支配の正当性と、その由来の再確認が必要になったからです。そこで教育現場では急遽、江戸期にはあまり知られていなかった「古事記」や「日本書紀」の神話や古代説話を、大きく取り上げることになりました。

ところが、天皇家の祖としての神武天皇が注目されはじめたのは幕末からのことで、それまでは、皇室自体も天智天皇とその子孫の天皇だけを、直接の祖先として祀っていました。神武天皇陵は、特別の扱いを受けた形跡が一切なく、天智以前の天皇は、すべて遠陵としてその所在すら不明になっていました。つまり神武天皇は、近代に入って発見された存在だったのです。現在の陵地を定めたのも文久3年のことで、孝明天皇が初めて遥拝しています。

明治政府は、この神話に始まる皇統を社会に普及させるため、西欧のキリスト教の聖書などの神話物語が図像化されて広く定着していることに倣って、絵図を用いた視覚教育に力を入れることにしました。幼少期の腦に刷り込む絵図を、各学校に備えることにしたのです。

さて、そうなると神々や古代の天皇の画像を描かなければなりません。「記紀」には文字だけで、画像は一切ないのです。髪型を決めるだけでもたいへんなことでした。幕末に菊池容斎の「前賢故実」の図像集がありますが、神武は描かれていません。絵師たちは、埴輪もヒントにして、神武東征や男装の神功皇后の、ミズラ姿の戦う「武」の天皇を強調することにしたのです。明治天皇自身も、それまでの眉を剃りオシロイを塗った軟弱で女性的なイメージから、一転して、断髪にひげを生やした、ヨーロッパ的な軍人君主に変容してゆきます。

「記紀」に記された神話や古代説話については、壬申の乱に勝利した天武天皇が、大きく関与していました。諸家の伝える古伝承が、それぞれの氏族に有利になるよう改変されて、多くの虚偽を含んでいるため、ここに正しい伝承を定めて後世に伝えるとあります。つまり天皇家に都合のよい内容に改変したのです。それを受け入れたのは、ほとんどの時代で都の権力を持つ支配層や、ごく一部の知識層に限られ、それも貴重な文字による情報だけでした。

江戸時代に入ると、識字率は上がり、木版による大量印刷ができるようになって、古事記が寛永21年(1644)に刊行されると、図像化して神社の絵馬や浮世絵などになってゆきます。しかし、その時代の支配者は将軍で、天皇家ではありませんでした。江戸の庶民は、政治性とは無縁の物語として受け入れ、自由奔放、荒唐無稽に画像化して楽しんだのです。

それが幕末に、天皇の正当性を示す本来の目的に戻ることになり、明治以降、多くの絵柄が描かれます。それらの絵葉書や刊行物は、戦前の教育現場に溢れました。さらに敗戦後、天皇が人間宣言をして国民の象徴になると、これらの神話や古伝承はほぼ消滅します。ところが近年、電子媒体のゲームに復活する兆しが出てきました。変容が続いています。「了」

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