「記憶力の正体」-人はなぜ忘れるのか 高橋雅延著 2019年5月4日 吉澤有介

ちくま新書、2014年10月刊   著者は、京都大学大学院教育学研究科を終了し、京都大学助手、ドイツ、ベルギーなどの海外大学の研究員を経て、現在は聖心女子大学教授です。専門は、認知心理学とのこと。

私たちは誰でも、記憶力をよくしたいと願っています。しかし過去の記憶をどれほど多く持っていても、何の意味があるのでしょうか。私たちは時間の流れの中で生きています。現在という時間を精いっぱい生きながら、未来に向かって新たな出来事を重ねて、自分自身を変えてゆきます。誰もが過去には辛い出来事に出会っていますが、時間の経過とともに次第に忘れて、その辛さを軽減してゆくのです。フランスの作家バルザックは、「多くの忘却なしには人生を暮らしてゆけない」といいました。私たちは自然に備わった忘却力のおかげで、次々と新しいことを覚えたり、自分の考えを前に進めてゆくことができるのです。

どれほど記憶力に自信のある人でも、「忘れる」ことから逃れることはできません。古代の哲学者プラトンは、忘却に二つの意味があることをモデルで示しました。一つは記憶が完全に消滅したもの、もう一つは記憶がどこかに残っているのにそれを思い出せないというものです。19世の後半に心理学が哲学から独立すると、この記憶に関する実験が盛んに行われるようになりました。忘却曲線や無意識に残る記憶などが次々に明らかになってゆきます。さらに1980年代ころからは、個人の自伝的記憶の研究が盛んになってきました。本書では、一個の人間の全体像の解明を目指して、この自伝的記憶を中心に追究しています。

記憶が良すぎる人たちがいました。超記憶症候群と呼ばれて、現在は世界に4人いるそうです。その一人、ジルという女性は、8歳頃からの自分の周りで起きた日々の出来事をすべて記憶していました。どの日付でも、その日に何があって、自分が何をしていたかが、即座に思い出せるのです。そのあまりにも鮮明な記憶は、彼女の意志とは無関係に絶え間なく浮かんできて、それに翻弄され続け、落ち着いた生活ができませんでした。過去の記憶のフラッシュバックのために、学校の授業に集中できず、暗記ものは大の苦手だったそうです。

映画「レインマン」のモデルにもなったキムという男性は精神障害で、日常生活は自立できませんでした。ところが9000冊以上の本を一字一句正確に暗記していました。彼らは「サバン症候群」と呼ばれています。この人たちは、ほとんどが脳の左半球に障害があり、残された右半球で特異的な非言語情報の処理を行っているらしいのです。しかしなぜ卓越した記憶力を持ったのかは、まだ解明されていません。視覚的イメージによる直観像能力という仮説があります。私たちでも、写真の記憶は忘れません。直観像に優れた人は、数字をみても色や匂いなどを知覚します。そのような記憶は共感覚記憶といって残りやすいのです。また驚きは記憶を鮮明にします。3.11の大震災などの感情的ストレスが記憶に残っています。

著者の記憶再現実験によると、何かを反復して覚えるためには、集中反復よりも分散反復のほうがはるかに効果的でした。やみくもに反復して覚えるよりも、一度忘れてからそれを思い出す(思い返す)ことがポイントだったのです。細部が省略され、全体の分量を絞って整理することで、本質的なものだけが記憶されます。忘れないと覚えられないのです。「了」

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