「古墳とヤマト政権」—古代国家はいかに形成されたか—2026年4月1日 吉澤有介

白石太一郎著、吉川弘文館、2026年(令和8)2月刊  著者は、1938年大阪府生まれ、同志社大学大学院で博士。国立歴史民俗博物館教授、奈良大学教授、大阪府立近つ飛鳥博物館館長などを歴任して、現在は国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学名誉教授です。主な著書に「古墳の語る古代史」(岩波書店)、「古墳と古墳群の研究」(塙書房)、「倭国誕生・日本の古代史」編著(吉川弘文館)、「考古学からみた倭国」(青木書店)、「古墳からみた倭国の形成と展開」(敬文社)などがあります。
三世紀後半から七世紀まで、日本列島各地に、巨大な前方後円墳をはじめとする様々な古墳が、数多く築造されました。この時代を考古学では、古墳時代と呼んでいます。それらの古墳が、時代とともに変容していった政治連合の秩序と、密接な関係をもっていたとすれば、古墳は、日本の古代国家の形成過程を追求するための、格好な資料となっているのです。
前方後円墳の出現年代については、庄内式土器がこの大転換期に現れたことで、三世紀後半という説が有力でしたが、近年の、出土した木材の年輪年代法によってさらに修正され、箸墓が三世紀中頃に作られた可能性が高くなってきました。魏志倭人伝にある政治秩序像と、スムースにつながったのです。この時期には、すでに吉備とヤマトの政治連合が成立しており、北部九州への活発な人の移動がありました。広域の邪馬台国連合の姿が見えてきます。卑弥呼が亡くなったのは、魏志倭人伝によると247年かその直後ですから、箸墓が卑弥呼の墓の可能性が高い。「記紀」にある箸墓の伝承が、呪術的であることにも符合します。
しかし、その規模を考えると、造営の始まりは、邪馬台国の呪術的な権威だけでなく、それを受け継いで鉄資源や先進的な技術を備えた首長連合、すなわちヤマト政権の成立に対応していました。邪馬台国と狗奴国の戦いは、すでに終わり、狗奴国を中心にした東日本の政治連合は、邪馬台国連合に加わり、政治連合の版図が飛躍的に拡大して、ヤマト政権に転換する契機になったのです。共通儀礼はもとより、箸墓の造営は、連合の証だったのしょう。
また古墳の出現に合わせて、日本各地にあった環濠集落が、ほぼ一斉に消えていました。大きな社会的な変動があったことは確かです。纏向には、東海系の庄内式土器が多量に流入していました。奈良盆地の東南にある、この地域がヤマト政権の中枢になったのです。
古墳の造営年代も、次第に明らかになりました。初期のヤマト政権の主要の古墳は、天理市南部から桜井市にかけて、北から順に、大和古墳群、柳本古墳群、箸中古墳群、鳥見山古墳群の四つに分かれています。その中の王墓とみられる6基の大型古墳の造営順序は、箸墓に始まって、これらの古墳群を交代しながら営まれていました。順序通りではないのです。
これは、ヤマトの王が、複数の集団からその都度、共立されたことを示していました。鳥見山古墳群にあるメスリ山古墳は、磐余の地にあります。イワレといえば神武でしょうね。
メスリ山古墳では、竪穴式石室の隣に、盗掘を免れた副葬品の石室があり、多くの儀礼用鉄製品に、武器類がありました。被葬者は司祭者であり、武人でもあったとみられます。
古墳の副葬品では、三角縁神獣鏡の研究が大きく進展しています。邪馬台国の所在地は、畿内の大和でした。魏志倭人伝の、南を東に置き換えれば、すべてが合致するのです「了」

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