「縄文探検隊の記録」夢枕獏、岡村道雄、かくつとむ著 2020年2月20日 吉澤有介

集英社インターナショナル新書、2018年2月刊
これは興味深い対談集でした。考古学者の岡村さんを迎えて議論しているうちに、考古植物学者の鈴木三男さんも参加します。1万年も続いた縄文時代の、東日本の文化圏が話題の中心でした。遺跡・遺物の最新情報から推論する、合理的で豊かな暮らしが展開します。
ある縄文遺跡から、石皿とすり石のセットが出ました。石皿は硬質砂岩、すり石は安山岩で、石皿の加工のキズで金属器時代より古いとわかります。叩いたりこすったりの痕跡があり、炉の煤もついていました。使い方は、クルミを割り、干したトチの実や、クリ、ドングリなどを粉にする、ジネンジョをすりつぶす、野鳥やウサギを骨ごと叩くこともありました。縄文料理では鍋が定番だったようです。食糧の保存は、まず天日乾燥、炉の上の棚で燻製にする、後期になると塩漬けもあり、クリやドングリは土穴で貯蔵すると、発芽が始まる春まで持ちました。貝塚から大量のカキとハマグリの層が交互に出るのは、集約的加工の証拠です。カキはすでに養殖をしていました。縄文時代には主食と副食の区別もなかった。ドングリよりもクリやクルミが圧倒的に多い。そのためか虫歯が多く見られます。後期のクリの実は現在とほぼ同じ大きさでした。農耕の痕跡はないが、エゴマ、アサ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどが出ています。最近、複数の遺跡でカボチャのタネが出て、問題になっています。
魚では、貝塚から出る頭の数に対して背骨の数が少なすぎました。全部食べたら同じになるはずです。頭は残し、身は干物か燻製にして内陸部へ運んだのでしょう。釣りは非効率でした。ハリがあっても出来がよくない。そうは釣れません。貝塚の土を詳しくみると、イワシなど小魚の骨が多いので、釣りではなく、囲い込み漁や網漁が主だったようです。
氷河期が終わって気候が温暖になると、木の実をつける落葉広葉樹林となり、食べられる野草も増え、海水面が上昇して、浅く豊かな海が誕生します。定住化という大きな変化が起きました。竪穴住居でしたが、屋根には土を被せていたことが、最近になってわかりました。
いわゆる茅葺ではなかったのです。土屋根の家は夏涼しく、冬も保温性に優れていました。
縄文人がヒスイに注目したのは、約7000年前の縄文前期です。産地糸魚川の長者ヶ原遺跡は13Haと広大で、加工技術は高く、流通の拠点でもありました。運ぶ男は貴重な情報源で、各地で歓待されました。実用品の黒曜石と違って、単なる商人ではなかったのです。
生命の木クリは、化石として1憶年前の白亜紀の地層から出てきます。まだ日本列島が大陸の一部だった時代です。縄文時代になって爆発的に増えました。林業の起源です。これは鈴木さんの「クリの木と縄文人」に詳しく、先にバイオマス図書館でも紹介しました。
漆については、岡村さんと鈴木さんの見解が分かれました。岡村さんは、函館や青森の遺跡で出た漆製品が、世界最古の9000年前と確認されたことから、漆は渡来文化ではなく、日本列島発祥としました。8000年前とされる中国よりも技術レベルが高かったからです。しかし鈴木さんは、日本列島に漆の木が自生していた痕跡が全くないことから、大陸からの人為的移植説をとりました。植物学者としての反論です。謎は深まるばかりでした。「了」

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