「間宮林蔵・探検家一代」 高橋大輔著 2019年8月22日 吉澤有介

             海峡発見と北方民族      中公新書ラクレ、2008年11月刊

著者は、秋田県生まれの探検家です。世界各地を探検し、2005年には、実在したロビンソン・クルーソーの住居跡を発見しました。著書に「浦島太郎はどこへ行ったのか」(新潮社)などがあります。1995年にロンドンで開かれた、イギリス王立地理学協会の「探検家養成セミナー」に参加した際に、日本の探検家としての間宮林蔵にあらためて注目しました。彼の発見した「間宮海峡」の名が、現在の地図ではロシア名に変えられていたからです。

本書は、林蔵のサハリン探検から200年という節目を迎えて、その出自を知るとともに、北海道からサハリン、さらにシベリアのアムール河下流の現地に、林蔵の足跡を追った厳しい旅のルポです。仕上げには、原資料をもとめて、オランダ・ライデン大学図書館まで訪ねました。そこで明らかになった間宮林蔵の実像は、まさに驚くべきものでした。

林蔵は、安永9年(1780)に常陸国筑波郡上平柳村の農家に生まれました。9歳で村の寺子屋に学んだ林蔵少年は、さまざまなモノを竹尺で測りました。樹木の長さや太さ、川の深浅、道の遠近など、自然の形やその変化に強い好奇心を持ったのです。父が、農業のほかに樽のタガ職人をしていたので、竹が常に身近にありました。立身への強い思いもありましたが、当時の身分制度では、農家を継ぐしかありません。ところが奇跡が起こったのです。

村を流れる小貝川は、たびたび洪水になりました。激しい流れに、堰をつくるための幕府の普請は難行していました。16歳の林蔵は、毎日その現場を見ていましたが、ある日、自分のアイデアを提案したところ、工事は見事に成功して幕府の普請役を驚かせました。

林蔵は江戸に呼ばれ、測量の修業をすることになりました。このころ、世界は激動の時代を迎えていました。西欧の探検家は、一斉に東北アジアの空白地帯を目指していました。異国船の来航が続きましたが、サハリンが島なのか、大陸の半島なのかは謎のままでした。

伊能忠敬に測量を学んだ林蔵は、普請役雇の従者として北海道に渡り、さらに特命によってサハリンに向かいました。目的は、サハリンの沿岸を見極めること、異国の様子を観察することでした。林蔵は、北海道で親しく付き合ったアイヌたちと、丸木舟でサハリンの東岸を北上しました。しかし猛烈な波風で断念します。2回目には、全長9m、鮭の皮を300枚も縫い合わせた帆を備えた小舟で、西岸を進みました。ここでもアイヌの協力は大きく、一進一退しながらも1809年、ついに海峡を抜けて、サハリンが島であると確認したのです。

林蔵は現地に逗留して、大陸のアムール河に渡るチャンスをつかみます。デレンの満州仮府まで遡行し、清国の官吏に面会して帰途につきました。この探検で、清国の支配の様子や、人々の暮らしについても、貴重な情報が得られたのです。現地社会に馴染んだ、林蔵のスケッチは見事なものでした。帰国後、詳細な地図や探検記を献上した林蔵には、老中より格別な沙汰がありました。林蔵が江戸に戻ったのは、1822年のことです。そこに、かのシーボルト事件が起こりました。しかしこれは林蔵のせいではなく、偶然の重なりだったのです。

著者はその経緯を丹念に辿り、妻子のなかった林蔵に、アイヌの現地妻がいたことを知りました。面会した間見谷と名乗る末裔は、しっかりとそのルーツを伝えていたそうです。了

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