「戦国日本と大航海時代」平川新著 2019年8月20日 吉澤有介

秀吉、家康、政宗の外交戦略 中公新書2018年4月刊

著者は、日本近世史専攻で東北大学教授、東北大学東北アジア研究センター長などを歴任して、現在は宮城学院女子大学学長です。本書では、さまざまな史料を通じて、戦国日本とヨーロッパ列強との虚虚実実の駆け引きを、新たな視点から生々しく描き出しています。

戦国乱世を統一した豊臣秀吉は、二度にわたって、大軍を動員して朝鮮に出兵しました。なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのでしょうか。定説では、国内を平定したのち、さらに領地拡大を求めて一方的に侵略したとされ、それも狂気の沙汰であったともいわれてきました。ところが、彼はかなり前から明国征服や、南蛮(東南アジア)、天竺(インド)の征服まで狙っていました。単なる領地拡大ではなかったのです。その構想は、信長から始まっていました。信長は、イエズス会宣教師から世界情勢を聞いて、アジア戦略構想を公言していたのです。

15世紀の大航海時代は、ポルトガルとスペインが領土獲得と植民地交易を巡って、覇権を争っていました。1494年には、両国で世界を子午線によって二分する、トルデシリヤス条約が締結されています。その子午線の東の果てに、わが日本が位置していたのです。両勢力の侵略の魔手が、日本で激突することになりました。秀吉はイエズス会の野望を見抜き、激怒してバテレン追放令を出し、スペインのフィリッピン総督と、インド・ゴアのポルトガル副王に、厳しく服属を要求しました。両国が明国をとるくらいなら、自分が先にやる。

朝鮮出兵は、ポルトガルとスペインによる世界征服事業へ、先手を打つ日本の対応でした。

出兵は失敗して、秀吉への批判が集中しました。しかし、これはまさにその後の日本の運命を決定する歴史的事件だったのです。この日本による巨大な軍事行動は、スペイン・ポルトガル側に重大な恐怖心を与えました。世界史に突然登場したアジアの軍事大国日本は、とても武力では征服できない。布教による侵略へと、大きく方向転換することになりました。

日本へのヨーロッパ列強の評価は、後継の家康にも引き継がれました。家康は当初、諸外国と全方向外交を目指していました。とりわけスペインとの通商を願い、江戸湾への来航を求めてきましたが、たまたま前フィリッピン総督ピペロが日本近海で遭難し、房総半島に漂着、救助されたことから、ピペロと家康との際どい交渉がはじまりました。ピペロは家康を国王よりも格上の「皇帝」として本国に報告しています。マニラに侵攻される不安におびえながら、狡猾な外交を展開しました。遅れて参入したオランダとイギリスの悪行を吹聴し、その排除を求めました。しかし家康はすでに、イギリス人のW・アダムスと、オランダ人のヤン・ヨーステンを外交顧問としており、冷静にさまざまな可能性を探っていました。

家康は通商を求めながらも、布教禁止に踏み切りました。しかし、スペインはあくまでも布教にこだわります。そこに割り込んだのが伊達政宗でした。仙台領に限り布教特区とすることで、家康の承認を取り付け、メキシコ、スペインとの通商を狙ったのです。ピペロの帰国を機に、支倉使節団を送り出しました。しかし政宗謀反の風評が立ったため、政宗は家康の禁教に従い、忠誠を誓います。ここで多元的な戦国大名外交は終わり、幕府は強力な軍事力を背景に、貿易と出入国の管理体制を確立しました。それが「鎖国」だったのです。了

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