「花と緑が語るハプスブルク家の意外な歴史」関田淳子著 2019年2月11日 吉澤有介

朝日新聞出版2018年12月刊  ヨーロッパ史に登場する名家として、ハプスブルク家は特別な存在です。1273年から1918年までの645年間にわたる長期政権を維持しました。しかし彼ら一族は、第一次世界大戦の帝国滅亡まで、数多くの戦いを強いられ、幾度も存亡の危機に遭遇してきました。
そのような歴史を背負った一族の心のストとレスは、計り知れないものがあったことでしょう。一族の多くの人々は、癒しを求めて花や緑を愛し、植物の世界に心を寄せました。彼らの居城シェーンブルンを飾る美しい庭園は、ヨーロッパを代表する名園として、世界遺産に登録されています。その庭園や温室には、ハプスブルク帝国領であったオランダ、ベルギーからの花々や、仇敵トルコからの植物、それに傘下のスペインがもたらした南米奥地の珍しい植物、特技の婚姻政策でつながった国々から贈られた植物などで満たされていました。それらの植物は、激動するヨーロッパ史の変遷を静かに伝えています。

本書では、ハプスブルク家の研究家である著者が、ヨーロッパの国際関係の歴史的背景をふまえて、シェーンブルン庭園の植物たちの、さまざまな来歴を教えてくれました。

古代から人々には、美しい花々の咲き乱れる楽園願望がありました。アッシリア帝国の庭園では、ブドウ、リンゴ、アーモンドなどが栽培され、ペルシャ帝国を経てイスラム教徒に伝えられました。イスラム教徒にとっては水が聖なる存在でしたので、流水や噴水を取り入れ、さらにアラブ人の幾何学による、規則性の美しい模様を持つ庭園が造られ、古代ギリシャ人の始めた薬草栽培と合わせて古代ローマに伝わります。ローマ人は、自生していたバラ、アイリス、ジャスミン、サルビアなどを加え、とくにラベンダーを好みました。西ローマ帝国滅亡後、フランク王国のカール大帝が西ヨーロッパの基礎をつくりましたが、彼はとくに植物栽培に力を入れました。神聖ローマ帝国では、修道院でハーブが生まれています。
ハプスブルク家は、スイスの無名の領主でしたが、思いがけずドイツ王に推薦されました。そのアルブレヒトⅡ世は、選帝侯らの圧力に耐えながら、婚姻政策でチロル州を併せて、鉱山資源で財政の基礎を固め、癒しのために初めて鑑賞用のペルシャ式庭園を造りました。
一族はみな果物好きでした。メロン、洋ナシ、モモ、オレンジ、チェリー、アンズ、ザクロをとくに好みました。15世紀には、姻戚のポルトガルからサトウキビを贈られています。 宗教戦争の最中でしたが、神聖ローマ帝国皇帝となったカール五世は、母方のスペイン国王を兼ねて、新大陸から運ばれた金銀で莫大な富を獲得し、さらに多くの栽培植物、トウモロコシ、ジャガイモ、トマト、カカオ、たばこ、パイナップル、ゴムなどを手に入れました。
一方、オスマン帝国はハンガリーを巡ってハプスブルク家と激しく対立し、ウィーンを包囲しました。植物好きのフェルデナント一世は、オスマン帝国と和解します。さらにその大使に、先方の植物収集を命じました。初のプラントハンター大使は現地で破格の厚遇を受け、チューリップやライラックなどを贈られて、ヨーロッパが一気に華やぎました。1642年、ウィーンで泉が発見され、シェーンブルン庭園が生まれました。女帝マリア・テレジアが愛し、完成させたこの庭園には、日本からのイチョウも美しい姿を今に伝えています「了」

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