「環境考古学事始め」(その2)安田喜憲著 2021年2月3日 吉澤有介

NHKブックス昭和55年4月刊

鳥浜貝塚遺跡の花粉ダイアグラム(改)鳥浜貝塚は、福井県三方町にあります。一般に我が国の泥炭地遺跡の多くは、縄文時代後期から弥生時代にかけてのものですが、この鳥浜遺跡は、約1万年前の縄文時代早期から連続して遺物が出土し、しかも貝塚を伴っているので、当時の人々の文化・生活を復元する、またとない宝庫でした。1万年前といえば、寒・暖の変動の著しかった激動の晩氷期が終わり、気候が一方的に温暖化に向かった時代でした。本州の低地から寒冷気候を代表するトウヒ属などは完全に姿を消し、かわってコナラ・ハンノキなどの落葉広葉樹が増加しました。海水温も上昇して、海の生物にも大きな変化がありました。海面も急上昇し、日本海に暖かい対馬海流が一気に流入し、多量の水蒸気が蒸発して、冬の日本海側に豪雪をもたらしました。針葉樹が壊滅し、タケカンバやブナ、ミヤマナラなどが優勢となったのです。

著者は、この変化が1万500年前で、更新世―完新世の境界であったとみています。旧石器時代と縄文時代の境界となったのです。人々の文化・生活に大きく影響したからでした。

9450年前には撚糸系土器が生まれ、人々は海に進出して豊かな縄文時代が始まりました。

日本文化の深層に照葉樹林があったとする、照葉樹林文化論が唱えられました。しかし日本列島の植生の推移をみると、照葉樹林の歴史は意外に新しく、たかだか7千年前のことでした。西日本が覆われたのは縄文時代後期になってからです。縄文時代早期から中期にかけての人々は、ナラなどの落葉広葉樹の森で、狩猟・採集経済に基盤をおいて暮らしていました。照葉樹林文化は後の時代に、農耕文化を伴いながら加わったものだったのです。

スギ花粉の地域変化とスギ天然林分布 鳥浜貝塚からは、様々な土器が出土しています。その中から指紋が出てきました。手の大きさからみて男性の指紋で、男も土器つくりに参加していたのです。また縄の巻き方で、左利きがいたこともわかりました。糞石も多く出て、内容や形状、重さなどを分析すると、繊維質が多く、トリの羽や寄生虫の卵まであって、当時の食生活までもわかってきました。

縄文早期の遺物では、板材も多く出てきました。何とその大半がスギだったのです。これまではスギ材の使用は弥生時代以降とされ、せいぜい4千年前からとみられていました。スギ利用の歴史が大きく遡ることになったのは驚きでした。鳥浜貝塚遺跡をめぐる森の姿はいくども変遷していたのです。人々の生活も大きく変化してきました。

縄文時代晩期に入ると、気候は冷涼・湿潤化して、東日本ではブナを中心とする落葉広葉樹林が広がり、一方の西日本では照葉樹林が優勢となって、顕著な対立を示すようになりました。狩猟・採集社会では、落葉広葉樹林の方が照葉樹林より生産力が高く、人口も多い強みがありました。照葉樹林では、生産力が低くて人口も増えず、新たな生産手段が求められていたのです。そこに現れたのが稲作農業で、一気に弥生時代を迎えることになりました。

弥生時代の遺跡からは、弓や石鏃が多数出ています。また漁猟も盛んで、大阪池上遺跡では大量のタコ壺まで出土しました。イネが伝搬しても、家畜は来なかった。タンパク源が必要だったのです。縄文から弥生への移行は連続的でした。しかし、水田稲作農業は、激しい森林破壊を伴いました。著者の生態的日本文化論は、優れて実証的で爽やかでした。
日本とイギリスの森林破壊の地域性「了」

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