「ニギハヤヒと先代旧事本紀」-物部氏の祖神–2023年10月11日  吉澤有介

戸矢 学著、河出文庫、2020年3月刊
著者は、1953年埼玉県生まれ、国学院大学文学部神道学科卒。専門は神道、陰陽道、地理風水、古代史で、「ヒルコ 棄てられた謎の神」、「怨霊の古代史」、「神道入門」、「縄文の神」などの多くの著書と、「まんが古事記」(講談社)の監修゙があります。
前著「ヒルコ」で天皇・皇室の祖、およびヤマト民族はどこから来たかを考察した著者は、日本神話の多くが歴史的事実を伝えていることを確信しました。「記・紀」には天皇による日本統一の伝承が記されています。しかしそこには決定的ともいえる謎がありました
初代の天皇は神武で、初めてヤマトに入り、統一国家を建設したとあります。ところが「記・紀」には、神武一行がヤマトに着いたとき、すでにそこには統治者がいたと明記されています。しかも彼は土着の首長などではなく、神武と同じ「天つ神の子」であり、アマテラスから授けられた「天つ御璽」を持っていました。ニギハヤヒです。神武とは同格ですから、一行は驚きました。ニギハヤヒこそが初代天皇だったのです。それなのになぜ帰順してヤマトを禅譲したのか。不可解な経緯でしたが、「記・紀」は説明しません。隠したかったのです。
しかし、「先代旧事本紀」には、詳細に記されていました。ニギハヤヒは、アマテラスの命により、皇位の印である十種の宝とともに、32人の将軍と多数の従者を連れて、天の磐舟に乗って天下り、大和国白庭山に遷御しました。ニギハヤヒは、先住の有力者長臑彦の妹炊屋姫を妃とし、ともにヤマトを治めました。ウマシマジが生まれますが、その直前、ニギハヤヒは亡くなりました。後に神武と対峙すると、ウマシマジは伯父長臑彦を殺して帰順します。将軍たちも神武に従い、それぞれが有力氏族の祖となりました。物部氏をはじめ、石上朝臣、穂積朝臣、阿刀宿禰、筑紫連など多くの子孫が、ヤマト国家の中核になるのです。
「先代旧事本紀」は、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとあり、「国造本紀」も含まれる貴重な記録です。645年の「乙巳の変」で焼け落ちた蘇我邸から、危うく持ち出されました。「記・紀」にない記述が多く、永らく偽書とされてきましたが、国造の歴史など、近年その重要性が見直されています。古事記よりも古く、大和朝廷が隠した事情が読み取れるのです。
著者は丹念に読み解いてゆきました。ニギハヤヒは天火明命とも呼ばれ、すでに実子の天香山命がいました。天香山命は尾張氏の祖で、海人族の出自とされ、丹後の籠神社の勘注系図にも、海部氏の祖神として登場します。越後で没し、弥彦神社に祀られました。
ウマシマジは、ニギハヤヒを布都御魂大神として、石上神社に祀り御魂を鎮めました。鎮魂の始まりです。フルは隕石にちなみ、いそのかみは五十神、すなわち五十猛神で、物部氏の祖神でした。明治になって御霊剣が発掘され、あらためてご神体として奉納されました。
五十タケルは、ヤマトタケルと同じく、剣を継承します。しかしそれは天叢雲剣ではなく、スサノオがヤマタノオロチを退治した勝者の剣「十握剣」でした。一方、三輪山の大物主は、敗者の天叢雲剣を依り代にしていたとみられます。その大物主こそが、長臑彦だったのです。崇神王朝で「祟り神」として怖れられました。大物主とは「大いなる物部の王」で、大和朝廷を憚る仮の名でした。五十猛の「い」は伊として、紀伊、伊賀、伊勢になりました。「了」

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