「荘 園」(しょうえん)—墾田永年私財法から応仁の乱まで—2023年9月12日 吉澤有介

伊藤俊一著、中公新書、2021年9月刊
著者は、1958年愛知県に生まれ、京都大学文学部卒、同大学院文学研究科で博士(文学)、名城大学講師を経て、現在は同大学人間学部教授です。専門は日本中世史。著書に「気候変動から読み直す日本史4、気候変動と日本中世社会」(共著、臨川書店)などがあります。
荘園は、日本中世の公家や寺社、武家など支配層の私有農園で、奈良時代に律令制の公地公民の例外として始まった日本の原風景です。日本の律令制は唐に倣ったもので、これまで豪族などが持っていた田地を国有化して、農民に平等に分配し、生活を保障したうえで性別や年齢に応じた課役を徴収しました。地方行政機関の国(くに)には、中央官庁から守・介・掾・主典の官人が任命され、3~15に分けられた郡には、行政官の郡司が任じられました。
郡司には地方豪族が起用され、世襲していました。官人とは身分差がありましたが、優秀な子弟には、中央に進む道が開けていました。郡司の佐伯氏から出た空海は、その一人です。
しかし、8世紀になると天然痘が大流行し、旱魃による飢饉も重なって、貴族も農民も3~5割が死亡した大災厄になりました。聖武天皇は、社会不安を鎮めるために大仏の建立を発願し、同時に墾田永年私財法を発布して、人口減少で荒廃した田地の再開発や新規開墾を促しました。その効果は多大で、社寺や貴族は個人所有の墾田を買収、または寄進を受けて各地を開発し、現地での経営には、その土地の郡司が当たりました。農民は専属でなく出向いて耕作し、公田と同じく租がありました。いわゆる初期荘園の誕生です。
桓武天皇は、794年に平安京に遷都して平安時代になりましたが、9世紀に入るとまたもや大きな天災が続いて、社会が不安に揺れました。864年に富士山が噴火、868年に播磨の地震、869年には東北に大津波が襲った貞観地震が発生しました。その後も878年の関東地震、887年には南海トラフの仁和地震が起きて、中部~西日本に大きな被害が出ました。疫病も流行し、木曽川水系で大洪水が繰り返し発生しています。そこで祇園祭が始まりました。
多くの村落が消滅して、郡司は没落し、古墳の伝承も途絶えました。こうした混乱の中に、新たに登場したのが、有力農民の富豪層でした。疲弊した農民を酷使して私財を貯え、摂関期の中央貴族と結んで新たな郡司となりました。国司の権限が拡大され、納税責任を負うものの、任国の人事を掌握し、公領と私領をともに管理して、荘園の認可権を持ち、受領として自由に振舞うようになりました。4年の任期を郡司と結託して、莫大な富を築いたのです。
摂関期には貴族や寺社は大きな力を持ち、国家の機能の一部を分担して権門と呼ばれていました。国司に荘園の税を軽減させる免田型荘園が生まれてゆきました。そこに中下級貴族の末裔が住み着き、在地領主になってゆきます。やがて武士が誕生することになりました。
院政時代に入ると、寺院の建設が盛んになり、その財政を支える荘園も増えてゆき、公領と荘園はほぼ同数になっていました。鎌倉の武家政権は、荘園を認めながら地頭が荘園管理権を握り、実質的に全国を統治してゆきました。さらに南北朝時代を経た室町時代では、戦いを主導した守護に権力が移り、荘園領主の代官を兼ねて勢力を拡大しました。応仁の乱で、京都を中心とした経済構造が壊滅すると、荘園の枠組みはすでに消滅していたのです。「了」

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