「承久の乱」真の「武者の世」を告げる大乱 坂井孝一著、中公新書2018年12月刊 2022年6月1日 吉澤有介

 著者は、1958年生まれの歴史学者です。東京大学文学部を卒業し、同大学院人文科学研究科で博士(文学)、現在は創価大学文学部教授です。専攻は日本中世史で、「曽我物語の史的研究」(吉川弘文館)、「源実朝」(講談社選書メチエ)など多くの著書があります。
 奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、翌建久元年(1189)、ほぼ30年ぶりに上洛し、後白河院と対面しました。その3年後、後白河は66才で亡くなり、13才の後鳥羽の親政が始まります。頼朝はその年、征夷大将軍に補任されました。鎌倉幕府という全国政権の成立です。
 絶頂期にあった頼朝は、長女大姫を後鳥羽に入内させ、その皇子を将軍に迎えて、嫡子頼家に補佐させる公家政権で権威づけしようとしました。しかし朝廷は一枚上手でした。公卿源通親が養女在子を後鳥羽に入内させて、皇子為仁を産むことで実権を握っていたのです。その上、頼みとした大姫は早逝し、頼朝自身までが急死してしまいました。(享年53)
鎌倉では、比企氏が養育した頼家が2代将軍になると、北条・比企両氏の確執が顕在化します。北条は一気に比企氏を滅ぼし、頼家を廃して弟の千幡(実朝⒓才)を擁立しました。
その時、後鳥羽はすでに為仁親王(土御門4歳)に譲位して、院政を始めています。後鳥羽は、正統な王たることを強く意識していました。平家の滅亡で、三種の神器が欠けていたからです。後鳥羽は多芸多才の天才でした。和歌、音楽に、運動能力も抜群で、蹴鞠や武芸にも通じていました。治天の君として「新古今和歌集」を親撰し、その2千首をすべて覚えたといいます。院としての自由をフルに満喫していたのです。まさしく文化の巨人でした。
一方、実朝は和歌や蹴鞠にも優れていましたが、決して軟弱な貴公子ではありませんでした。当初は北条の支えを受けたものの、自立して統治者として大きな成果を挙げ、「金槐集」を撰して後鳥羽の朝廷と良好な関係を保ちました。実朝は異例の昇進を重ねましたが、子供ができず、後鳥羽の皇子を後継に望みます。絶望した頼家の遺児公暁は、実朝の右大臣拝賀の日、鶴岡八幡宮の境内で実朝を暗殺しました。享年28。歴史は大きく動いたのです。
鎌倉の衝撃は直ちに朝廷に伝えられ、後鳥羽も悲嘆に暮れましたが、将軍後継問題で幕府のコントロールを決意して、親王下向を拒否し、摂家を将軍とします。しかし武力で威嚇する幕府に、後鳥羽の不信感は募るばかりでした。さらにここで大内裏焼失事件が起きたのです。将軍への道を絶たれた源三位頼政の孫、頼茂の謀反でした。幕府内の権力闘争が都に持ち込まれたのです。後鳥羽は大内裏再建を命じましたが、各国の地頭たちは頑強に抵抗し、鎌倉も動きません。後鳥羽は、北条義時こそ元凶と「義時追討」の院宣を下しました。
鎌倉は全くの想定外の事態に驚愕しましたが、首脳部の対応は敏速で、京の使者の院宣を抑え、直ちに御家人を尼将軍政子のもとに召集しました。政子の史上有名な演説が始まったのです。それは巧妙にも、「義時一人の討伐」を「幕府に対する攻撃」にすり替えたものでした。「幕府興亡の危機」に、御家人は興奮して団結し、大軍を擁して京に攻め入りました。一ヶ月にわたる激戦の末、承久3年6月15日に鎌倉方の勝利に終わります。後鳥羽は隠岐に、順徳は佐渡、土御門は阿波に流されました。「真の武者の由」が始まったのです。「了」

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