「大和朝廷史」(1~5巻)桂川光和著 2020年12月1日 吉澤有介

系譜伝承が明かす大和朝廷の歴史 

アマゾン電子書籍より
著者は、信州大学農学部林学科卒業後、福岡市の企業に就職して九州を歩き、日本古代史にはまりました。独立して在野の古代史研究家となり、一連の電子版著書を上梓しています。記紀などの文献や系譜、伝承などから古代史を掘り起こす、独自の手法は異色でした。

大和朝廷はいつ始まったのでしょうか。戦後、古事記や日本書紀は殆ど全否定されてしまいました。しかし、これらの史書は編纂当時の最高の知識人によって、国家事業として記されています。政治的に歪曲された部分があったにしても、必ずどこかに歴史的事実が含まれているはずです。著者は史書とともに、各地に遺された膨大な系譜と伝承を吟味しました。

まず中国史書の後漢書倭国伝で、107年に倭国王が朝貢したとあり、もう一つ魏志倭人伝に卑弥呼擁立の経緯が記されています。卑弥呼擁立の前、2世紀後半に倭国大乱があり、その前は男王の時代が70~80年続いたとあります。とすればその初代は、倭国王の朝貢の時期と一致します。つまり大和朝廷は107年の直前に成立しており、その初代が神武でした。

東征は100年頃のことでしょう。東征を疑問視する向きもいますが、記紀にあるその経緯は余りにもリアルです。地形も地名もそのまま現在に残り、各地の伝承も生々しい。先に大和にいた長臑彦や饒速日命、その子の可美真手命は物部氏の祖で、高倉下とともに実在したことは確かです。また当時西日本を支配していたのは出雲族でしたが、事代主の娘五十鈴姫命が神武の皇后に、妹の五十鈴依姫命が2台綏靖の皇后になりました。大和朝廷は、出雲族を取り込んで権威を強化したのです。一族は大神氏として、大神神社を奉じました。

この間の事情を伝える「先代旧事本紀」は、蘇我馬子と聖徳太子が編纂したもので、乙巳の変での蘇我蝦夷邸の火災の中から、一部だけが持ち出されて焼失を免れたものでした。ここにある初期大和朝廷を支えた各氏族の系譜が、著者に重大な事実を教えてくれたのです。

丹波の支配者の系図を伝える海部氏の「勘注系図」が籠神社にあります。いまは国宝に指定されていますが、代々極秘の文書とされてきました。その系図の6世孫に「宇那比姫」の名があります。尾張氏の系譜にもあり、7人兄姉の末妹でした。大倭姫、さらに天造日女命(ひめみこと)という尊大な別名を持ち、巫女の名もあります。まさに「卑弥呼」に違いありません。和邇氏の祖、天足彦国押入命の妃になっています。和邇氏の子孫である静岡県磐田市にある国玉神社の系譜にもありました。魏志倭人伝には、卑弥呼に夫はなく、男弟が補佐をしていたとあります。卑弥呼に弟はいませんが、夫には弟がいました。夫亡きあとの義弟、6代孝安がいたのです。奈良県天理市の東大寺古墳は、和邇氏の墓とされていますが、中平の銘のある刀が発見されました。184~189年の年号で、時代が合います。孝安の宮は奈良県御所市の室秋津嶋ですから、卑弥呼の王宮も同じでしょう。ここに遺跡があります。

「勘注系図」には、宇那比姫の3世後に同じ大倭姫の名を持つ女性がいます。天豊姫の別名がありました。これこそ同族の「台与」です。記紀では9代開化の妃となっていました。

8代孝元の時代に「国中不服」の乱があったので、台与が擁立されたのです。11代の垂仁でようやく大和朝廷は安定し、纏向時代となります。垂仁紀には多彩な伝承がありました。了

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