「魚にも自分がわかる」幸田正則著、ちくま新書、2021年10月刊2021年11月30日 吉澤有介

    —動物認知研究の最先端—

著者は、京都大学大学院理学研究科出身。現在は大阪市立大学大学院教授です。専攻は行動生態学、動物生態学、動物社会学、比較認知科学で、アフリカのタンザニイカ湖やサンゴ礁魚などの魚を中心に、行動、生態、認知の研究を行い、魚が霊長類と同じ鏡像自己認知できることを実証して、世界を驚愕させました。本書はその貴重な証言です。

これまでの世界の自然観や動物観は、人間が頂点にありました。脊椎動物の腦の進化は、初期段階の魚類の単純な構造から、爬虫類、哺乳類へと新しい腦が加わり、霊長類にはさらに複雑な働きを持つ大脳新皮質ができて、現在の賢い腦になったといいます。これは「マクリーン仮説」と呼ばれて、世界の常識になっていました。その底辺にいる魚などは、感情もなく痛みも感じない全くのアホで、本能だけで生きているとみられていたのです。

ところが今世紀に入って、動物の腦の研究が大きく転換しました。魚類の段階で、腦の構造はすでに哺乳類と全く同じとわかったのです。魚の祖先の化石でも、腦神経はヒトと同じ⒓本で、大脳、間脳、中脳、小脳、橋、延髄の順序も同じで、脊椎につながっていました。こうなると、脊椎動物には高等も下等もない。「マクリーン仮説」の崩壊は明らかでした。

動物行動研究は、一気に「行動生態学」に流れてゆきます。著者の野外の観察でも、魚は配偶相手を精巧に個体認識していました。相手を騙したり、喧嘩の仲裁までしていたのです。

自己認識の決定的証明は、鏡に映る姿を自分だとわかることです。この鏡像実験は古くから行われていましたが、最初の科学的実験は、ギャラップ教授によるチンパンジーでした。最初は鏡の像を他者とみて猛烈に攻撃しました。しかしやがて手を振ったり口の中を見たりして、自分と分かったようです。そこでチンパンジーに気づかれないように、額に赤マークをつけて鏡を見せると、彼は額のマークに触わりました。この鏡像自己認知は、その後イルカ、ゾウ、カラスの仲間のカササギでも確認されました。驚くべき能力でしたが、いずれも賢いとされた動物でしたから、人間中心の常識の範囲内として、世界も容認したのです。

著者はここで、魚にも自己認識ができるとみて、水槽実験を開始しました。挙動を確かめる魚としてサンゴ礁魚のホンソメワカベラを選びました。自他の体についた寄生虫を摘み取って食べたり、岩に擦りつけたりする習性があるからです。しかも熱帯魚店で買えます。

一ヶ月ほど水槽で馴らしてから鏡を見せると、最初はやはり攻撃しました。しかし5日後になると、身体を揺らしたり、逆さになったりの不自然な行動をとり、やがてじっと鏡を見るようになりました。鏡像が自分とわかったに違いありません。さらに確認のために麻酔をかけて、魚の標識に使うイラストマーで、寄生虫に似た茶色のマークを喉のあたりに付けました。元気に泳ぐようになってから鏡を見せると、ホンソメは何と砂底の小石に喉を擦り付けたのです。しかもその後また喉を見ていました。自己認識の決定的瞬間でした。

学会で発表すると、たいへんな騒ぎになりました。魚類学者は驚いて絶賛しましたが、動物学者は猛然と反対しました。魚にできるはすはないと。しかし著者の実験は万全でした。

魚にもヒトと同じく自分がわかったのです。世界の動物観を転換した痛快な一書でした。了

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