「日本史の探偵手帳」(その2)磯田道史著 2021年9月29日 吉澤有介

明治維新の立役者は、ほとんどが下級武士でした。上級武士だったのは、佐賀藩の大熊重信(300石)、紀州藩の陸奥宗光(500石)、長州藩の高杉晋作(200石)くらいのもので、それ以外はせいぜい徒士クラスでした。伊藤博文などは足軽以下の中間です。足軽、中間などは、家臣団に属して帯刀はしていましたが、身分としては百姓・町人に近いものでした。足軽以下は、徒士以上とは大きな隔絶があり、袴の着用も許されなかったのです。

上士は知行地をもつ小領主で、自分の家を大切にしました。一方徒士以下は俸禄を受けるサラリーマンでした。彼らは官僚として実務をこなすため、次第に実力主義が重んじられるようになります。藩校では、上士の子は成績による席順と身分を気にして馴染めず、学問に意欲的な徒士の子弟が伸びてゆきました。藩校以前からの、師と弟子が1対1の対面学習が引き継がれ、学習効果を高めました。武士の教育に力を入れた藩が、幕末から明治にかけて有為の人材を世に送り出しています。やはり教育は国家百年の計だったのです。

明治政府の創設に参加した第1期エリートは、ごく少数でしたが藩校で選抜されて、しかも維新の戦乱を逞しく生き抜いてきた人びとでした。ものごとを一から構想し、それを完成させる能力を鍛えられ、さらに実戦の現場経験を加えて、総合知を体得していました。

第2期のエリートは、高度の専門知を持つ実務家でした。明治政府は江戸時代の身分制を否定して能力主義を掲げ、有為の人材を主としてヨーロッパに留学させました。彼らは外国と外国語を必死に学んで、日本語に翻訳して持ち帰り、劇的な成長を遂げました。

第1期のエリートには、専門知はないものの確かな大局観があり、第2期エリートとの組み合わせは最強の力を発揮しました。その成果が日露戦争の勝利だったのです。

しかし第3期のエリートになると、その資質は明らかに劣化してしまいました。身分を問わずあらゆる階層に道が開けたのは良いことでしたが、筆記試験の成績が優秀な、学校秀才一律の集団になっていました。武士や庄屋の公に対する責任感が忘れられ、国全体が戦勝で緊張感が緩んでいたのです。人材の多様性がないと、危機には対応できません。国際感覚は鈍くて国家戦略を誤り、明治から70年で戦前エリートの国は滅びました。ちょうど戦後70年となった今のエリートも、もしかしたら同じ道を歩んでいるのかもしれません。

日本社会は、安定しているときには所属や世襲になりやすく、一旦変革の過程に入ると、実力主義、能力主義に変わります。その危機を乗り越えると、また元の所属原理に戻るのです。藩や会社、役所も学校も「公共の場」から、いつのまにか私益を守る閉鎖的な共同体の「暮らしの場」に変わっています。日本史はこの繰り返しでした。歴史は役に立つのです。

頼山陽は「日本外史」で、幕末の多くの日本人に影響を与え、明治維新の原動力になりました。江戸時代最高の知識人で、美しい漢文調の日本語を創り、その歴史観は、後に徳富蘇峰、司馬遼太郎へと引き継がれました。戦後忘れられましたが、著者は高く評価しています。

古文書の旅では、「女くの一」が実在したこと、江戸に隕石が落ちた記録をもとに探索したこと、イケメン大名が正妻と愛妾に苦労した話、家康の食生活、慶喜が大坂から江戸に逃げ帰って、最初に所望したのがウナギだったことなど、隠れた歴史が満載でした。「了」

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