「日本史の探偵手帳」磯田道史著、文春文庫、2019年1月刊        

著者は、テレビの「英雄たちの選択」などでおなじみの歴史学者です。慶應大学大学院文学研究科で史学を専攻しました。現在は、国際日本文化研究センターの准教授です。

著者は、本来歴史は人生に役立つ面白いものなのに、今の学校教育の教科書では、味のない暗記物になっていると嘆いています。人名や年号などは、ネットですぐ検索できてしまうので、暗記は意味がありません。本書は、人生経験を積んでからあらためて歴史に学ぶことに気づいた人のために、さまざまな生きた歴史を提供する、絶好のテキストになっています。

著者は、すこしでも疑問があればトコトン調べて、一次資料の古文書を探し出して解明しています。教科書にはない、生々しい歴史を発掘して、確かな成果を挙げていました。

中世の武士は、だいたいが地域の土豪でした。大きな戦いがあると、その地の戦国大名から呼び集められて出陣します。足並みは揃わず、時間もかかりました。忠誠心は薄く、旗色が悪くなればすぐ逃げ出してしまいます。総大将は怖くて決戦をなるべく避けたのです。

ところが近世になると、火縄銃が使われて、訓練された密集軍団が強さを発揮しました。武士は村を離れて城下町に住み、主従は一体で、戦死しても子孫には永代雇用が保証されました。濃尾平野で生まれたこの近世軍団が、日本全土を制覇したのです。藩ができて、軍団組織がそのまま官僚機構となり、上下の身分や安定志向は、現代に引き継がれています。

一方、村では名主が世襲で、広大な田や山林を持ち、酒蔵なども兼ねて、明治になると県会議員から政界に出ました。永田町はムラの集まりで、無意識にその性格を残しています。

日本は世界的にみて、経済統計が古くまで辿れる国の一つです。元禄時代(1695~1710)のはじめ、のちの勘定奉行荻原重秀によって、「元禄の貨幣改鋳」が行われました。小判の金含有率を86%から56%に減らし、通貨供給量を大々的に増やしたのです。貨幣供給残高は、85%も増加しました。当時は西日本を中心に新田開発は進み、経済規模が急速に伸びていたのに、幕府は経済拡大に見合う通貨を供給してきませんでした。国内の金銀が枯れ気味だったせいもあります。通貨需要に対して通貨が足りないデフレになっていました。ここで大坂の経済は活気づき、井原西鶴、近松門左衛門や坂田藤十郎が出て都市文化が開花し、消費が拡大しました。物価は3%も上がらず安定したのです。荻原は、緊縮派の新井白石に失脚させられて憤死しましたが、通貨は国家の信用なりと喝破した、時代を超えた天才でした。

幕末の備中松山藩(5万石)は、陽明学者山田方谷の改革で再生しました。藩が乱発した信用のない藩札を買い集め、見物人がいる前で焼き捨てました。そして新たに銀と交換できる新藩札を発行し、これを元手に新たな産業を興したのです。使いやすい備中鍬とタバコの生産を支援して、江戸に直送、直販しました。経済改革の最終目標を、武士・領民の福祉の実現におき、改革はその手段として、十年足らずのうちに、10万両の借金を、10万両の貯蓄としました。農民出身の方谷を執政にして、最後まで支えた藩主板倉勝静は名君でした。

著者は全国の古文書を旅して、さまざまな話題を提供しています。巻末には日本と日本人を知るための指針として、多くの先人による「必読の100冊」を挙げていました。「了」

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