「戦中派不戦日記」山田風太郎著、令和2年8月31日 吉澤有介

 

角川文庫、平成26年7月刊

先の太平洋戦争についての、日本国内における一般民衆の体験日記は意外と少ないようです。あまりにも凄まじい体験で、それどころではなかったことでしょうが、昭和20年の東京市民の日常を、ここまで克明に語られている記録を知りません。
著者はこのとき23歳、丙種合格で兵役を免れた若き医学生でした。将来作家になるとは思いもよらず、永井荷風のように読者を意識することなく、ひたすらに悲惨な現実を見たまま記して、ひとり思索を巡らせました。遠い昔のことですが、今となっては戦中派としての貴重な記録になっています。しかもその文体は、見事な文語体で語られ、全編を美しく簡潔に引き締めていました。

日記は昭和20年元旦から始まっています。祖国存亡の一年と覚悟するも、前夜から早朝にかけてB29 が来襲、浅草あたりがやられたと聞きました。3日、御徒町までゆくと焼け跡が広がり、被災者の群に出会います。連日空襲が続きますが、目黒の下宿で著者はこの間も菊池寛、川端康成、芥川などを読んでいます。比島戦線はすでに暗転、国民は夢遊病者のようにただ耐えるばかりではないか。それでも友人と浅草花月に柳家三亀松の都都逸を聞きに行きます。このころ独逸の敗報しきりでしたが、各種報道は空虚面妖なものでした。

⒓銭の銭湯では、脱衣場で盗難におびえ、湯舟は灰桃色の臭い蒸気に立錐の余地もありません。疲れ切った老人と子供ばかり、話は空襲のことのみで皆力なく笑ってしまいます。

空襲はいよいよ厳しくなってゆきますが、新宿の校舎では授業や試験が続きます。時折り配属将校が戦局を語っても、敗色濃厚の感が増すばかり、著者は今次大戦の真因と、その行方に暗然とします。2月17日には硫黄島に敵上陸。これ以降B29、艦載機などの編隊が数百、数千と増え、ついに3月10日を迎えました。深夜東方の空血のごとく燃え、凄惨言語に絶す。目黒でも新聞が読めるほどでした。それでも午前中は4科目の試験あり、午後に下町を目指して飯田橋までゆくと、もう何という凄さ、まさに満目荒涼、火傷で頬のただれた男が「つまり何事も運ですなあ」といい、女は空を仰いで「ねえ、またきっといいこともあるよ」と呟きました。これこそ人間なるものの「人間賛歌」でしょう。学友数名も死亡。

大阪、名古屋、神戸も壊滅、巷は敗戦論に満ちてきました。著者はその中でもチエホフやゴーリキーを読みながら日本の命運を案じます。連日の東西文学書の読書記録はさすが。

4月16日、目黒も火の海となりましたが何とか焼失を免れます。翌日も授業あり、法医学、解剖学実習、皮膚科など、謹厳な教授の淋菌講義に一同抱腹絶倒します。5月29日には新橋演舞場に菊五郎を見にゆきました。街はいずこも廃墟、ヒットラー死すとのニュースを聞き、今が世界史における歴史的時代と一種異様な興奮を覚えます。5月24日ついに著者も被災します。名文で綴られた空襲の凄まじさは例えようもありません。やがて東京医専は信州飯田に疎開、広島原爆投下の報を聞きます。山間のこの町にも鬼気が漂ってきました。

「8月15日(水)炎天、帝国ツイニ敵ニ屈ス。」著者は腸がちぎれる思いで祖国の運命を憂い、民族の再生を願ってやみません。日記はさらに戦後の日本人の精神の崩落の様子を克明に追っています。あの戦争における民衆側の生きた脈拍を伝える稀有な記録でした。「了」

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