「日本古代史を科学する」中田力著 2020年8月12日 吉澤有介

PHP研究所2012年2月刊

著者は、東京大学医学部卒、アメリカの各大学の医療現場で修業して、カリフォルニア大学脳神経学教授となり、帰国して新潟大学医学部脳研究所のセンター長に就任しました。複雑系脳科学の世界的権威として日本とアメリカを往復し、多数の著書があります。本書では自然科学者の「眼」で学界のタブーを破り、新たに独自の日本古代史に挑戦しています。

著者の専門である複雑性の科学では、初期条件が重要な意味を持っています。またマルコフ連鎖の過去を問わないという理論によって、時間軸に沿う考察に徹する立場をとると、自然科学者としての日本の古代史が見えてくるのです。その初期条件の設定として信頼できるのは、やはり魏志倭人伝と考えました。その成立の過程から見て信憑性が高いからです。

先入観にとらわれず、厳密に読み進めてゆくと、真実が見えてきます。距離の表現では一里は60mであり、方角は上級官吏の記録ですからほぼ確かでしょう。実際に確かめた部分と伝聞の部分を分け、そこに宇宙考古学による地形観察を重ねると、国々の位置と邪馬台国への道筋が浮かんできます。著者は、邪馬台国を宮崎平野の日向灘付近と特定しました。

さてそこからは記紀の検討です。一般に神話の部分はもちろん神武以降の記載の大半は虚構とされています。しかしその記載が、当時の最高の知識人によるからには、必ずどこかに真実が隠されているはずです。著者は、論理的思考による仮説の構築を展開しました

高天原(邪馬台国)に対して素戔嗚尊の黄泉の国(出雲)の勢力があり、博多の奴国(綿津見神の国)は金印で実在が確認できます。それらのルーツをDNAで解析すると、朝鮮半島ではなく、中国本土の上海付近と共通し、イネで調べても同様な結果でした。卑弥呼も魏の金印を貰いました(未発見)。知識レベルは高く、中国本土と深い繋がりがあったのです。

王族が海を越えて未開の地に渡ったとすれば、それは国が滅亡したときしかありません。

本土の歴史を探ると、史記に大伯の建てた呉が、BC473年に越によって滅亡したとあります。呉の王族の集団が渡海し、五百年の歳月をかけて奴国を興して定着し、本土に朝貢したのです。魏志倭人伝にも、倭人自ら呉の末裔と称したとありました。さらにBC210年に秦の徐福が、若き貴族ら3千人を率いて渡来し、邪馬台国を建国しました。足場を固めた四百五十年後に卑弥呼が魏に朝貢し、邪馬台国は奴国を抜いて倭の宗主国となったのです。

出雲もまたBC334年、楚に滅ぼされた越の貴族の末裔でした。彼らはもと呉の民でもあります。渡海してみると、すでに呉の王族の建てた奴国があったため、さらに日本海沿いに進んで出雲、高志の地にたどり着きました。この仮説も染色体の解析で裏づけられます。

高志に「越」の字を当ててコシと呼んだのも偶然ではないでしょう。ただ家系がやや低い。そこで韓半島にいた商王朝の祭祀を伝える貴族を探し出して迎えました。素戔嗚尊の家系を継いで婿入りした大国主命です。呉越の難民が弥生時代の出発点となったのです。国譲りが平穏に行われた所以でした。神武東征で大和王朝が誕生します。そのとき商王朝の文化である祭祀の礼が天皇家に伝えられました。神話にある血縁関係もほぼ納得できるのです。

著者は、さらに記紀にある4王朝へと仮説を展開してゆきます。興味深い論旨でした。「了」

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