「ガリレオの求職活動・ニュートンの家計簿」佐藤満彦著 2019年7月5日 吉澤有介

科学者たちの生活と仕事  中公新書2000年8月刊 著者は山形県鶴岡市生まれで、東京大学理学部植物学科、同大学院博士課程を修了して、都立大学教授を長く勤めました。専攻は植物生理生化学です。一般にこれまでの科学史は、科学知識発展の歴史的経緯は丹念に解説していますが、それらの業績を築いてきた科学者たちの実像については、あまり触れていませんでした。本書では、彼らの人間としての生き方、経歴、生活の実態などを辿ることによって、どのようにして研究を推進したのかを中心のテーマとしています。そこには天才たちのさまざまな人生ドラマがありました。

遥か昔、ギリシャ人が先鞭をつけ、中世ではアラビア人が保存していた自然研究を蘇生させたのは、「ルネッサンス期の科学者」でした。この復興はまず、過去の認識に立ち向かった天文学と医学で先鋭的に現れました。次いで物理学と数学がその基礎を固めます。

しかしその担い手となった天才たちは、科学を本職とすることはできませんでした。多くは研究手段や生活手段を提供してくれるパトロンを求めて、その庇護を受けながら研究を進めたのです。この時代のパトロンは、もはや封建貴族ではなく、大商人、皇帝や教王たちでした。メデイチ家や、神聖ローマ帝国皇帝らです。パトロンを求め続けたレオナルド・ダ・ヴィンチの切実な手紙が遺されています。職業としては、医者や聖職者などで、当時出現した大学教授も教育者で、研究は副業だったのです。一端をご紹介しましょう。

コペルニクスは、日本の応仁の乱の頃、ポーランドのハンザ同盟の都市で生まれました。少年時代に船員から地理の新知識を得たようです。10歳で父を亡くし、聖職者の伯父に引き取られて、同じ道を進むことになりました。イタリアの大学に、10年にわたり留学して聖職者・医者になりました。地元有力者として、政治面でも実績を上げ、余暇を天文学に捧げたのです。大著「天球の回転について」の出版は、1543年のことでした。その10年前から主旨を発表していましたが、ローマ教会は、意外にも寛容でした。出版を強く薦めてくれたのは一人の司祭で、コペルニクスはすでに臨終の床でした。異端は後のことです。

ガリレオは、イタリアのトスカナに生まれました。18歳で地元のピサ大学で医学を学びますが、父の商売失敗で退学しました。父の友人から数学を学び、いきなり才能を発揮します。数学好きな貴族の目にとまり、幸運にも26歳でピサ大学教授となりました。ただし任期は3年で、給料は医学教授の1/30でした。ピサの斜塔の実験はこの頃のことです。ところがある貴族の発明品を酷評して恨みを買い、失職してしまいます。父も死んで、一家を支える厳しい立場になりました。ようやくヴェネチアの大学教授となりますが、家庭的にも恵まれまず生活が苦しく、家庭教師、下宿屋、計算尺の製造販売などで凌ぎました。天体観測で業績を挙げましたが、天動説を支持して異端審問を受けます。ただ「それでも地球は動く」の言葉は俗説でした。第一次判決は緩く、執行猶予付きの有罪でしたが、第2次で「天文対話」に厳しく、ガレリオは失明し、失意のうちに78歳で世を去りました。

ニュートンには、後年かなり複雑な評価があります。「プリンキピア」出版の後、一時精神錯乱にもなったようです。天才の故でしょうか。科学者たちも、人間でした。「了」

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