「万葉集で解く古代史の真相」小林恵子著 2019年4月8日 吉澤有介

祥伝社新書2016年10月刊 著者は、岡山大学文学部で東洋史を専攻しました。「記紀」を偏重する日本史学会に対し、国際的視点から独自の日本古代史を構築しています。これまでの定説を覆す多くの著書がありますが、本書は2003年に上梓した「本当は恐ろしい万葉集」を新たに加筆し、封印された史実を歌に託して告発して、「万葉集」の恐るべき側面を明らかにしています。

「万葉集」は、奈良時代末期に編纂された日本最古の歌集です。編者には、聖武天皇に近侍した歌人大伴家持が深く係わり、表記は漢字に日本語の発音を当てはめた「万葉仮名」によっています。しかしその著作年代は不明で、当然あったはずの序文が存在しません。なぜかといえば、それは平安時代の「古今集」以後の歌集と違って、「万葉集」は初めから政治的意図をもって成立した歌集だったからです。そのヒントを与えてくれたのは、イヨンヒが古代朝鮮語で読み解いた「蘇る万葉集」でした。古代朝鮮語を各地の方言まで熟知し、日本人以上に日本の古代語に通じた、その稀有な才能が政治裏面史を見事に描きだしたのです。

そこで得た著者の論旨を挙げてみましょう。まず額田王は、推古朝末期に百済の武王が来倭して、田村皇子の名で河内の伽羅系新羅女性に生ませた娘である。中大兄皇子は異母兄だった。額田王は新羅へ政略結婚させられる。武王が没すると内乱となり、中大兄皇子は母親(後の斉明天皇)とともに亡命して倭国に渡った。額田王も帰国して、兄に高句麗の王子蓋蘇文こと大海人皇子と政略結婚させられる。十市皇女(後の大友皇子妃)が生まれた。中大兄と大海人は共闘して蘇我宗家を滅ぼすが激しく対立し、額田王は両者の緩和に努めた。歌の含意が示している。中大兄が即位して天智天皇になると、大海人は高句麗・新羅の支援で争い、7年後山科で天智を捕らえ、土佐に幽閉して娘婿の大友に譲位させて殺した。(書紀、続群書類聚などに伝承あり)天智の庶子で長子の高市皇子は不満で、大海人側について「壬申の乱」を起こし、大友を殺した。ところが突然大海人が天武天皇として即位した。高市皇子は皇位継承順位では大津皇子、草壁皇子の後になったが二人とも死ぬ。唐は天武天皇を認めず、軍事力で追放する。天武は逃げたが日本海で殺された。持統天皇が即位したとされるが、実際の天皇は唐の推した高市皇子で、持統朝は高市朝だった。しかし後年、高市天皇の長子の長屋王が、無実の罪で一族が殺された。後継の元明・聖武天皇は簒奪王朝なのだ。隠ぺいのために「書紀」の編者の舎人皇子らは、高市朝を持統朝と改竄したのである。

柿本人麻呂は亡命百済貴族の出で、天智系にあって天武を呪い、天智系の復活を強く願っていた。有名な「東の野に炎の立つ見えて—」の歌には、「天武朝敗れたり」の意味が込められていた。人麻呂の活躍は、ほとんどが持統(高市)朝に限られている。挽歌もすべて天智系に捧げられていた。天武系の文武朝になると人麻呂は失脚し、やがて処刑された。

「万葉集」の序文は消されました。「万葉集」は政治的意図をもって編纂されたので、それを命じた天皇を否定する天皇が消したのです。それは「古今和歌集」が編集された時期でした。「万葉集」は埋もれてしまいました。編者の大伴家持が、早良皇太子事件に連座したとされたことも要因でした。しかし、序文だけ消した歌集は力強く復活したのです。「了」

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