「幕末遠国奉行の日記」小松重男著 2020年11月9日 吉澤有介

御庭番川村修就の生涯     中公新書、1989年3月刊

著者は旧制県立新潟中学卒で、鎌倉アカデミア演劇科に学び、近世史をテーマとして作家活動をしています。私の中学2年後輩に当たりますが、面識はありません。

遠国奉行とは、江戸以外の幕府直轄地へ派遣されて、将軍の代理として支配権を執行する、高級官僚のことをいいます。すなわち京都、大阪、駿府などの町奉行と、長崎、下田、函館などの要地を預かって支配する役職です。江戸町奉行や勘定奉行、寺社奉行などは、格式が高いものの、権限にはさまざまな制約がありましたが、遠国奉行はその地の市長であり、警察権、民事・刑事の裁判や税務など、すべての行政権を一手に掌握するので、幕臣たちが最も憧れる要職でした。本書では御庭番から抜擢されて、初代新潟奉行となった川村修就(かわむらながたか)の生涯を取り上げています。克明な日記を遺してくれたからでした。

御庭番とは、8代将軍吉宗が、徳川宗家を継いだとき、紀州で特別の任務についていた17名の家臣を、身辺警護の幕臣に編入したことに始まっています。彼らは隠密ではなく、特捜検事として情報を収集し、老中を含む大名や諸役人を公然と監察する将軍直属の存在でした。川村修就はその一人で、22才で召し出され、早くから頭角を現します。17年間で7度も遠国御用の旅に出ました。老中水野忠邦に認められて要職を重ねてゆき、日記には役職ごとの俸禄も併せて記しています。その慣習は今の官僚たちにも引き継がれているのです。

次いで当時長岡藩の領地であった新潟湊の抜荷の探索を命じられます。藩主の牧野備前守は京都所司代在任中で、すでに老中が目前でしたから、探索は極めて危険なものでした。報告書は詳細を極め、長岡藩の不正とともに、異国船に対する海防を急務としていました。

水野忠邦はここで修就を勘定吟味役に登用します。いわゆる「天保の改革」の一翼で、伊豆の代官江川太郎左衛門とともに、海防の予算を担うことになりました。お台場建設や下田の検分などで多忙を極めます。清国の阿片戦争敗北の情報で、水野忠邦は日本海の海防にも危機感を持ちました。新潟湊を長岡藩から取り上げて幕府直轄地とし、その初代奉行に川村修就を抜擢したのです。ところがその直後の天保14年(1843)、水野忠邦が失脚しました。

保守派の巻き返しでした。江川太郎左衛門ら多くの側近も罷免されましたが、新潟奉行の人事は遂行されました。48歳の修就は、その間の推移を事実のみ記し、新任務に集中しました。新設の奉行所には先例もなく、すべてを奉行が企画したのです。2人の旗本を組頭に、58人の御家人を選抜して任命し、さらに20人の足軽を雇いました。総勢80人で、行政だけでなく、北海の警備を第一の任務とし、武器としての大筒9門も含め、5万石の大名並みの格式で、公儀の威光を示して新潟に入りました。奉行は稀にみる行政能力を発揮して人心を掌握し、さらに砲術免許皆伝の技術で現地での大筒製造に成功して、部下を訓練し、湊の防備を固めました。海岸砂丘の飛砂で悩む町には、3万6千本のクロマツを植え、その砂防林は現在まで続いています。湊の繁栄、物価の安定、風紀綱紀の粛正で、町民の尊敬を集めました。11年の任期を全うした後、堺、大坂町奉行から長崎奉行へと栄進しました。

その膨大な日記は、曽孫から新潟市に寄贈され、幕末の事情を今に伝えています。「了」

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