「前方後円墳とはなにか」2023年1月10日 吉澤有介

広瀬和雄著、中公叢書、2019年12月刊
著者は、1947年京都市に生まれ、同志社大学を卒業して、大阪府教育委員会、大阪府立弥生文化博物館を経て、奈良女子大学大学院教授、国立歴史民俗博物館教授を歴任しました。文学博士。専攻は、日本考古学(弥生・古墳時代の政治構造)で、「縄文から弥生への新歴史像」、「前方後円墳国家」、「日本考古学の通説を疑う」など多数の著書があります。
邪馬台国の時代と律令国家の時代に挟まれた、3世紀中ごろから7世紀の初めまでのおよそ350年間の古墳時代には、北海道・東北北部と沖縄を除く日本列島で、約5200基の前方後円墳(前方後方墳を含めて)がつくられました。墳丘、埋葬施設、副葬品などに多少の差はあっても、出現期から終末期まで、ほぼ共通な性格を示しています。古墳の造営には、高度な土木技術と膨大な労働力が投入され、さらに多種多様で貴重な副葬品が添えられていました。一見不合理に見えますが、そこには明らかな共通性と階層性がありました。
しかし、この古墳時代についての研究は、円筒埴輪や土器、鏡や玉、武器や馬具などの副葬品が中心で、詳細を極めてはいますが、前方後円墳そのものについての体系的研究は、文字資料が極めて乏しいために、記紀に頼る傾向が強く、あまり盛んとはいえませんでした。
著者は、その共通性と階層性に注目して、これまでの通説を疑い、大胆な論旨を展開しています。まず「河内政権論」を疑いました。5世紀に河内の政治勢力が台頭して、大和の勢力から政権を簒奪した。4世紀まで奈良盆地にあった巨大前方後円墳が、5世紀に河内に移ったことで、天皇家は万世一系ではなく、古王朝・中王朝・新王朝と交替し、中王朝が河内の仁徳から始まったという説です。しかし政治権力が交替して、なぜ前代王朝の象徴である前方後円墳をそのまま継承したのかという大きな疑問が残ります。政権交替論には、もともと無理がありました。著者は、大和と河内を結ぶ大和川水系の古墳を総称して「畿内五大古墳群」と呼んでいます。そこには凝集性・巨大性・階層性という共通点がありました。それぞれの首長が数代にわたって同時並行的につくった古墳群で、この特性は、対立軸のない強固な中央政権の存在を示しています。古墳時代の中期には、「百舌鳥」「古市」「佐紀」「馬見」の4有力首長が、淀川水系も含めた畿内全域の首長層を束ね、一大政治集団を形成して中央政権を共同統治していました。その古墳群は、深山幽谷ではなく、殆どが交通の要衝に造られています。前方後円墳は、明らかにその政治権力を人々に見せるものだったのです。5世紀に入ると「百舌鳥」と「古市」の集団から大王を立てました。東アジア情勢が緊迫して対応に迫られ、武力を備えて、半島の使節らに古墳による威信を見せつけるためでした。
中央政権が成立すると、関東など地方にも多くの前方後円墳が造られました。在地首長が自発的に中央に倣ったのではなく、そこには中央からの明確な意志が働いていました。目立つ場所に突然出現して、数代で消えています。在地首長なら長く続いていたはずでしょう。前方後円墳は、国家として政治秩序による階層性を、可視的に明示するものだったのです。
著者は多くの古墳を詳細に検討し、その本質に迫っています。各地の伝統的墳墓様式が次第に統合されて古墳国家が成立し、7世紀の消滅に至る流れを、見事捉えた大著でした。「了」

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