「日本鉄道史」(幕末・明治篇)-蒸気車模型から鉄道国有化まで-2022年10月13日 吉澤有介

老川慶喜著、中公新書2014年5月刊 著者は、1950年埼玉県生まれで、立教大学大学院経済学研究科出身の経済学博士です。関東学院大学、帝京大学助教授を経て、立教大学経済学部教授、同経済学研究所所長となり、鉄道史学会会長を務めました。鉄道史関連の多数の著書があります。
世界で初めて蒸気機関車による本格的な鉄道が開業したのは、イギリス産業革命の最終局面にあたる、1830年(文政13)9月のことでした。リバプール~マンチェスター間の72,4kmの鉄道が開通し、鉄道時代が始まると、鉄道は瞬く間にフランス、アメリカ、ドイツなどの欧米諸国に広がり、20年後には世界の鉄道の営業距離は、ほぼ3万kmにも達しています。この情報は、ジャカルタのオランダ政庁から、毎年「別段風説書」として日本に伝えられていました。1850年には、ペリーの日本来航まで、すでに予測されていました。
ペリーの艦隊4隻は、53年(嘉永6)7月浦賀に来航し、日本に開国と通商を要求し、一旦は退去しましたが、翌年9隻の艦隊で再訪して、前年の回答を求めました。ペリーは、将軍への献上品の一つとして、蒸気機関車の模型を持参し、横浜で運転して見せました。その後、江戸城でも江川太郎左衛門が運転し、将軍や幕府の首脳陣を驚かせています。
一方、その前年8月には、ロシア使節のプチャーチンも、軍艦4隻で長崎に現れ、幕府に通商を求めていました。佐賀藩では藩主直正の命により、その軍艦内部を見学し、士官室にあった蒸気機関車の模型を見て、その原理と構造を理解し、即時に製作に取り掛かりました。田中義衛門ら4人の精錬方技術陣で、早くも2年間で完成させています。このころ、薩摩藩や福岡藩でも蒸気機関車模型を製作していました。しかし、誰も実物を見ることも乘ることもできず、最初に鉄道に乘った日本人は、アメリカに渡っていたジョン万次郎でした。
その後、開国と開港を経て、1860年(万延元)から幕府の使節団が欧米に派遣され、福沢諭吉や渋沢栄一らが鉄道に乗り、その利便さを実感しました。またこの時期に、留学先のロンドンで、鉄道技術を体系的に学んでいた長州藩士がいました。井上勝です。1863年(文久3)に藩命で密航した井上薫、伊藤博文ら長州ファイブの一人でした。明治維新後、帰国した26才の井上勝は、鉄道専門官僚として日本の鉄道の自立化に生涯を捧げました。
幕末から明治にかけて、欧米諸国は日本に対して盛んに鉄道敷設計画を持ち掛けてきました。それは殆どが「外国管轄方式」で、激しい利権獲得競争を展開し、アメリカは幕府から江戸~横浜の鉄道敷設権を獲得しました。しかし、新政府は「自国管轄方針」を確立して、これを拒絶しました。自国で可能というイギリス駐日公使パークスの助言によったのです。
新政府で鉄道敷設を積極的に進めたのは、大隈重信と伊藤博文でした。大隈らは西欧発展の例を挙げ、国民経済の発展を目指しましたが、守旧派は軍備充実を優先させるとして抵抗しました。紆余曲折を経て廟議が決定され、日本の鉄道事業が開始しました。汐留~横浜間29kmの鉄道は、高輪付近では海上築堤で敷設されました。兵部省が妨害したためです。1872年(明治5)10月⒕日、直衣・烏帽子姿の明治天皇臨幸の開業式が挙行されました。ただ反対論に押されて、低コストの狭軌とした井上と大隈は、後に深く後悔していました。「了」

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