「人生のことはすべて山に学んだ」沢野ひとし著 2021年8月27日 吉澤有介

角川文庫、令和2年7月刊

著者は1944年、名古屋市生まれで幼時に上京、児童書出版社勤務を経てイラストレーターとして独立しました。本書は、2015年に海竜社から出版された単行本の文庫版です。

これは私事ですが、山の本にはこのところすっかりご無沙汰していました。ところが何となく本書を手に取ってみると、25年も年下の著者が、まさに私たちと同じ山ヤの最後の世代ともいえる価値観を持ち、のびのびと山を歩いていることに、すっかりはまってしまいました。山歴では、ヒマラヤの6476m峰やアルプスのアイガーまで踏破した著者の足元までも及びませんが、30代までの山行は圧倒的に夜行列車であり、重いテントを背負って日本列島の名だたる難コースに挑戦し、それぞれの山に深い思い出を残した山ヤの姿に、つい自分を重ねていたのです。多種多様な山でのエピソードには、人生の要諦がぎっしりと凝縮されていました。 著者は、若い時から良い山仲間に恵まれていたようです。それに経験豊かなリーダーがいて、山を学ぶには最高の環境がありました。これはその山旅の様子です。

北海道大雪山の天上の楽園を歩いて3日目、トムラウシ2141mを目前にして突然の嵐になりました。土砂降りの中、リーダーは一行を二つに分け、元気印を先行させて南沼幕営地の設営を頼み、自分は山の荒れ狂う天候を楽しむように、著者らを励ましながら登りました。寒さに震えながらようやく着いたテントには、暖かいチャーハンが迎えてくれました。

3月の終わりに、友人とニセコに出かけました。挿絵や原稿の仕事を抱えながらの、クロカンスキーの山旅です。広い頂上で展望を楽しんでいたら、急に気温が上がってきました。宿で聞いた雪崩の予感がして、予定したコースのあきらめの早いこと。二人とも納得でした。

谷川岳一ノ倉沢にも通いました。烏帽子沢奥壁南稜コースで、初めてのときには岩場の迫力に圧倒され、やたらに肩や手に力が入って、終了点での先輩の握手に涙が溢れました。30代になって、一の倉沢の全体がほぼ見通せるようになり、ある秋の日に、友人とロープを組みました。再度の南稜では彼が断然早い。目のくらむ高さでのお菓子の味は格別でした。

海谷山塊七三二高地は、糸魚川の海川上流にあり、鋭い岩稜と深い渓谷で知られている、ミニ上高地のような桃源郷です。昭和40年代に初めて山岳雑誌で紹介され、岩登りの聖地となりました。毎年岩に取り付いていた友人も著者も、今は静かな散策を楽しんでいます。

涸沢岳3110mの西尾根は、冬の奥穂高へのルートです。正月に奥穂からの下山で、友人のカメラマンが消息を絶ちました。抜群の体力と技術がある我が国有数のベテランで、家も近かったので家族ぐるみのお付き合いでした。5月の連休での捜索に同行した著者の子息が、偶然に遺品のカメラを発見しました。その秋、親子で現地を再訪してお酒を手向けました。

奥穂高岳3190mに立つと、多くの若者が山に青春をかけた気持ちがわかります。しばらくは夢遊病のようになって、他人との会話も不自然で、都会のビルや石垣を見ると、あそこに手をかけて、足場はここでと、心はすでに岩場という、穂高病に罹ってしまうのです。

子息は都会に馴染めずに、とび職を経て植木職人になり、夏の間、南ア三伏峠小屋の小屋番をしました。著者夫妻も訪ねて幸せを感じます。本書は山への愛に満ちた好著でした。「了」

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