「江戸町奉行所物語」堤淳一著、2021年8月12日 吉澤有介

22世紀アート電子版、2021年4月刊

著者は弁護士です。1941年に横浜で生まれました。多くの論文やエッセイがあります。

江戸時代、徳川幕府は強い中央集権制を持っていましたが、他方では大名領国が、半独立地方政権として存在していました。そして徳川政府自体も、天領という「領国」を持つ二重構造を持っていました。その上幕府は、租税徴収権を各大名に与え、自身はその租税を取り立てずに。四百万石ばかりの天領からの租税に頼るという、実に奇妙な国家だったのです。

その首都である江戸は、江戸城を中心として、ほぼ現在の山の手線範囲に武家地、町人地、寺社地から成っていました。享保10年(1725)の比率は、それぞれ67%、13%、16%、その他6%で、人口は、それぞれ65万人、60万人、5万人の合計130万人でした。当時はロンドンが70万人、パリは50万人以下でしたから、江戸は世界一の大都市だったのです。

その治政を預かる南北両奉行所の制度ができたのは、慶長9年(1604)のことでした。享保2年(1717)以降の南町奉行所は数寄屋橋、北町奉行所は呉服橋にあり、ともに敷地は2千坪を超え、各人数は与力25騎、同心150人がいて、輪番で勤務していました。

町奉行は旗本で、役高は3000石、芙蓉の間に出仕して老中の支配を受ける、従五位下の分限で〇〇守を名乗り、出役の際には10万石の格式を与えられていました。目付や遠国奉行などを経て登用される高級官僚で、老中を補佐し、寺社奉行、勘定奉行と連署して、内外の政事、法律制定などのすべてを評議して上裁を仰ぐ、老中、若年寄りに次ぐ重職でした。

町奉行の仕事は、武家地、寺社を除く、江戸市民に対する行政全般、司法、警察、経済政策、消防、福利厚生の小石川養生所などと、極めて広範です。南北で一か月交代の輪番でしたが、非番でも政策立案や調べ物などが多く、町奉行はまさに激職極まりないものでした。

与力は町奉行所に属する役人で、奉行が直接任命します。一代限りとされていましたが、行政経験や専門知識が必須なので、与力同士の縁組などで、実質世襲となってゆきました。世禄の平均は200石の旗本格ですが、実質の年収は64両くらいで、これだけではギリギリの生活です。また同心は、与力が選考して任命しますが、給米は平均30俵2人扶持で、これも実質年18両くらいの薄給でした。しかし彼らにはかなりの役得がありました。諸大名や社寺から、多額の付け届けがあったのです。与力では年間千両を超えることもありました。その上に八丁堀の役宅200坪の一部を医師などに貸す副収入もあって羽振りがよく、いつも颯爽としていました。同心はその副収入で、非公認の「岡っ引き」を雇っていたのです。

町奉行所は、江戸の総合官庁でしたが、人数はごく僅かで、市政の執行は町年寄りを通じて行う間接統治のようなものでした。名主の代人家主を五人組の町役人とした半官半民のネットワークを張り巡らせていました。奉行所といえば「捕り物」ばかりが出てきますが、実態は「公事」という金銭関係などの民事裁判が大半でした。それを与力が取り調べ、奉行が裁許して一審で終審します。訴訟は本人に町役人が羽織はかまで同道しました。与力による和解もありました。奉行も大身の旗本より、微禄で放蕩したほうが、市井に通じて人気がありました。本書では、裁判の様子を詳しく述べています。江戸の治政は見事でした。「了」

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