PHP研究所2014年3月刊(電子版)
著者は1945年、横浜市生まれ、東北大学工学部土木工学科修士で建設省に入り、主にダム、河川事業を担当しました。近畿地方建設局長、河川局長などを歴任して国土交通省を退官し。現在は日本水フォーラム事務局長で、社会資本整備の論客として活躍しています。
全国のダム建設の現場で、地形や気象と格闘していたとき、梅棹忠夫の「文明の生態史観」を読んで衝撃を受け、歴史と文化を理系の目で新たに見直すことを知りました。地形と気象から見ると、これまでの定説が、見事にひっくり返ることに驚いたのです。
秀吉は小田原攻めで天下を取ると、ライバルの家康を関東に移封しました。家臣たちは左遷だと憤りましたが、家康はむしろ積極的に江戸に入りました。関東に大きな将来性をみたからです。その一つの柱がエネルギーでした。当時のエネルギーの主力は森林資源でしたが、近畿や関西ではほぼ枯渇していました。関東の豊かな森林に着目した家康は慧眼でした。江戸幕府を開いてからは、各地の森林を天領とし、さらに木曽を尾張藩に、紀伊半島を紀州藩に、北関東を水戸藩に守らせました。これらの森林から出た木材は、筏に組まれて水路で江戸に運ばれました。筏は現代のタンカーだったのです。江戸が世界一の百万都市となった主因です。しかし、参勤交代などで各地の宿場も賑わうと、地方の森林伐採も進んで、幕末の東海道は、ほぼ禿げ山になってしまいました。広重の浮世絵にその様子が描かれています。
家康は利根川を東に曲げ、銚子に導きました。その狙いは江戸の洪水防止とされ、大きな効果をもたらしましたが、一番の目的は東北の伊達藩に備えることでした。家康の鷹狩は一千回を超えて有名でしたがそれは名目で、実は関東の地形をつぶさに把握していたのです。
なぜ日本は欧米列国の植民地にならなかったのかの謎については、一般に幕末・明治にかけての英雄たちの活躍などが挙げられてきました。しかし、別の視点でみると大きな要因がありました。欧米列国は競って日本を狙いましたが、実際に戦い、現地調査をしてみると意外に手強く、民度の高さに驚きます。何よりも急峻な山々と複雑な地形に、めぼしい資源はなく、金もほぼ枯渇していました。そこに巨大地震と津波が相次いだのです。初めて経験した彼らの恐怖は極限に達しました。植民地化から通商政策に転じたのは当然のことでした。
明治政府は、鉄道の建設を進め、中央集権の強化をはかりました。東京一極集中の始まりです。しかし巨大都市の建設には、水道の確保が必須でした。江戸の水道はよく知られていますが、新たに開港した横浜は深刻でした。大きな川がなく、一寒村に過ぎません。水道の確保が急務でした。著者はその経過を追い、それが家康の築いた多摩川から川崎宿への11カ領用水からのもらい水で凌いだことを突き止めました。横浜はその後、相模川からようやく自前の水道を建設して発展しました。神奈川県のダム建設は、長年の悲願だったのです。
著者は日本人の長寿の謎にも挑戦しています。幼児の死亡率がカギでしたが、それは水道の普及と相関がありました。水道の普及とともに大正10年に幼児死亡率に異常なピークがあって、そのとき平均寿命はどん底になりました。その後幼児の死亡率は一転して減少して、やがて日本は世界一の長寿国になったのです。大正10年におけるV字回復の原因は大きな謎でした。著者は丹念な文献調査により、意外な事実を発見します。それは何とその時代に行われていた、日本のシベリア出兵にありました。当時の陸軍がその兵器として、極秘に毒ガスの液体塩素の開発を保土谷化学に依頼していましたが、完成したときにはすでに出兵が終わって、液体塩素の使い道がなくなっていたのです。そこに着目したのが細菌学を専攻した後藤新平東京市長でした。ようやく普及し始めた近代水道の、水質不良を問題とみていた後藤新平は、即座にこの液体塩素の上水道殺菌への転用を断行しました。大正10年の日本は、後藤新平によって世界でも稀な長寿国へと進む大きな転機となったのです。
本書ではさらに、弥生時代のなかった北海道に稲作が可能となった経緯を探り、石狩川の河川改修の歴史を辿りました。今後の地球温暖化で、北海道が大きな役割を担うと期待しています。日本人の縮み志向の所以や、「もったいない」の心、また国旗についても、世界の多くの国が星と月を描いているのに、なぜ日本だけが太陽を象ったのかを論じています。
なお日本の今後のエネルギー政策についても、貴重な提言をしています。日本の地形や気象を考えると、自然エネルギーとしての太陽光や風力は、どうしても安定性に欠ける面があります。それよりも水資源の見直しが重要でしょう。100年前、グラハム・ベルが来日したときに、すでに予言していたことでした。しかし新たなダム建設の余地はもうありません。
著者はここで、全国の多目的ダムすべてに水力発電を備え、気象予測によるダムの弾力的運用を行い、そして一番の施策として既存ダムのかさ上げを挙げています。僅かのかさ上げでも、ダム全体では膨大な貯水量となります。著者の試算では、これらの効果はおよそ930万kwで、100万kwの原発9基分に相当します。日本の生きる道がここにあるのです。
「番外編」として、「エジプトのピラミッドはなぜ建設されたか」についての、著者の謎解きも興味深いものでした。古来、世界中の考古学者がこの問題に挑戦しています。現在その有力な説は、ピラミッドは王墓ではなく、農民救済のための無意味な公共事業であったといいます。しかし1000年を超えて歴代王朝が無駄な事業を続けるわけはないでしょう。
著者は独自の仮説を立てました。ナイル川は毎年洪水をおこします。ピラミッドといえばギザが有名ですが、これまで発見されたピラミッドは80基以上もあり、すべてナイルの西岸に並んでいました。それも殆どが砂に埋もれていたのです。そこで専門家の著者はひらめきました。このピラミッド群は「からみ」であったに違いない。ナイルの東岸には山脈があり、西岸はリビア砂漠に続いているので、堤防がなければ、自然の流れは西の砂漠に逃げようとします。砂漠では流れが消えて海まで届きません。長大な堤防をつくることはたいへんです。日本にも古くからあった「からみ」とは、河岸に並べて櫓を組むと流れが淀んで周りに堆積して、自然の堤防になるのです。築後川にその遺跡がありました。古代のエジプト王朝は、この「からみ」の原理を応用して、ナイルの流れを海へと導き、広大なデルタを形成させたのでしょう。では、ギザの3大ピラミッドは、なぜあれほど巨大なのでしょうか。
著者は、広大なデルタの深い葦原での、農作業者の目印と考えました。3基の大ピラミッドの壁面には大理石が張り付けてありました。その配置で朝日を受けると次々に輝き、方角と時刻がわかります。この仮説には、カイロ大学教授も興味を示してくれました。「了」