「脳は、なぜ「あなたをだますのか」妹尾武治著 2020年2月25日 吉澤有介

知覚心理学入門    ちくま新書、2016年8月刊

著者は、東京大学大学院出身で、知覚心理学が専門の九州大学大学院芸術工学研究院准教授です。「ベクション」という視覚による錯覚現象から、衝撃的な話題を展開しています。

知覚心理学は、人間の五感の、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚について研究する学問です。刺激の物理的な量を変化させて、人間の行動パターンがどう変わるのか。脳の中で一体どういった手順で、刺激を行動に変換しているのか、そのアルゴリズムを大胆に推察します。

知覚心理学では、早くから視覚についての研究が進みました。後頭部にある視覚野と呼ばれる脳部位の活動が捉えやすく、目に入った光の強さから、物体の形や動きを検出できます。

著者は、とくに運動知覚にかかわる「ベクション現象」に注目しました。ホームで隣の電車が発車したのに、自分の車両が動いたと錯覚する、あの現象です。視覚情報によって身体の移動感覚が引き起こされるのです。自己移動感覚は、さまざまな感覚経験によって支えられますが、それらの感覚の重み付けによって、ベクションの強さと、感じる時間の遅れが変わります。刺激の面積が大きいほどベクションは大きく、3D刺激にするとさらに強く現れるので、最近のバーチャルリアリテイやアニメーションでは、このベクションをフルに活用しています。また宇宙工学でも、重要な概念になっています。重力のない空間では、視覚情報と他の感覚の重み付けが大きく変わるので、ベクションがより強くなり、出現までの時間も早くなることがわかりました。脳と心のアルゴリズム解明のカギになりそうです。ベクションは、自分だけが感じる「クオリア」の感覚にも通じるものでした。

ところで、虫のクモは意志を持って行動しているのでしょうか。環境に反応しているだけかも知れません。人間も同じ生物ですから、すべてはDNAと環境の相互作用で行動しているとも考えられます。自由意志の否定を証明した、実験が報告されているからです。

アメリカの神経科学者リベットは、開頭した患者の脳に直接電気刺激を連続して与え、患者は腕を触られていると感じました。しかしその感覚は、刺激開始よりも0.5秒も遅れて意識したのです。人間はいつも刺激よりも0.5秒遅れて意識していていました。どうやら私たちは、意識してから自由意志で行動したのではなかった。無意識のうちに、環境に遅れないように、適切な行動をとっていたからこそ、生き延びてきたのです。0.5秒の遅れは大きい。野球のボールを打つ場合、動こうと思ったときには、手や指はすでに動いています。私たちが自分の意志で行動しているというのは、後付けされた錯覚に過ぎなかったのです。

リベットのこの驚くべき実験は、哲学、心理学、生理学などの各分野で、さまざまな議論を呼びました。実験はさらに続き、マックスプランク研究所では、人間の脳は無意識のうちに、行動開始よりも7秒も早く準備しており、自由意志ではないことを明らかにしました。

しかし現代社会は、人間に自由意志があることが前提にしています。たとえ真実を知ったとしても、法律などの社会の仕組みへの対応は、当然錯覚したままでゆくしかありません。

心理学者で初のノーベル賞を受賞したカーネマンの「プロスペクト理論」、ハトが数学者より賢いことを証明した「モンテイホール問題」など、実験心理学は刺激的でした。「了」

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