「怨霊の古代史」戸矢学著 2020年1月18日 吉澤有介

       蘇我・物部の抹殺
河出書房新社2010年1月刊   著者は、国学院大学文学部神道学科卒の陰陽道研究者です。神道による独自の視点から新たな問題に取り組み、「卑弥呼の墓」、「陰陽道とは何か」などの著書があります。

平成22年(2010)は、平城京へ遷都して1300年という記念すべき年に当たります。本書では、ここであらためて飛鳥時代を振り返り、日本史の原点に迫っています。「飛鳥」といえば今日では、「日本人の心のふるさと」という美しいイメージですが、実はこの時代こそ、朝廷での権力闘争が最も熾烈な時代だったのです。大王(天皇)の権力構造や政治体制が、いまだに定まっていないため、その後継を巡って陰惨な殺し合いが繰り返されました。

蘇我氏が台頭し、権力を一手に掌握し、そして一挙に滅亡しました。その間に起きた事件の多くは冤罪で、「理不尽な死」に追いやられた人物の「怨念」は、当事者ばかりでなく広く恐れられました。天変地異や疫病の流行は、「怨霊の祟り」とされていたのです。しかし、我が国最初の国史「日本書紀」には、それらの事件の後に起きたさまざまな祟りは、殆ど記述されていません。そこには編纂を主導した藤原不比等の強い意志が見られます。ところが、その「怨霊」を鎮めるために寺や神社に祀ることが、まさにこの頃から始まっていました。歴史は勝者がつくりましたが、彼らの恐れた証拠がここにあったのです。

587年、穴穂部皇子は物部守屋とともに、蘇我馬子とその甥の厩戸皇子らに誅殺されました。たまたま平成20年、飛鳥の藤ノ木古墳の発掘調査で、被葬者がその穴穂部皇子と、同じく殺された宅部皇子の二人と推定されたのです。その状況は、不測の事態で急ぎ埋葬された可能性が高いものでした。古墳は、法隆寺の西300mに近接しています。これは偶然ではないでしょう。もとの法隆寺(若草伽藍)には、なぜか日本書紀に創建の記事がないのです。火災にあったとは書かれているのに、これは極めて不自然です。真相が削除されたに違いありません。創建は穴穂部皇子の慰霊のためでした。蘇我氏は祟りを恐れたのです。穴穂部皇子は、書紀で悪逆非道とされていますが、それは誅殺を正当化するためかもしれません。

物部守屋は、まさに権力闘争による死でした。攻めた厩戸は、戦勝を「祈願」したといい、四天王寺建立の由来とされています。しかし急ぎつくられた当初の場所は、守屋の屋敷跡地でした。守屋の慰霊鎮魂のためでしょう。今も四天王寺の西門には、巨大な鳥居が聳え、西方浄土への道を封印しています。やはりこれは馬子が建てた、鎮魂施設だったのです。

崇峻殺害も極めて不自然で、馬子に動機はありません。後にもっとも利益を得た、一か月後に即位した推古と、甥の厩戸こそが怪しい。実行犯は直後に殺され、あとは不問でした。

厩戸の聖徳太子は幻想でしょう。斑鳩に出家遁世しました。梅原説のような怨霊になるはずがありません。ゆかりの地に神社が一つもないのもおかしい。上宮一家の滅亡も、山背大兄王への推古の評価は低く、勅命による討伐でした。入鹿の大罪ではなかった。その入鹿は、乙巳の変で、皇極に強く無罪を訴えました。最強の怨霊となったのです。再建法隆寺は入鹿の鎮魂のためでした。天智の末路はまことに奇妙なものでした。書紀の崩御の記事は僅か一行だけでそっけなく。山城で失踪したと伝わっています。天智は怨霊を見たのでしょう「了」

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