胎児期から人類の未来まで
ちくま新書2019年10月刊 著者は、比較認知発達科学が専門の、京都大学大学院教授です。ヒトは、数百万年という長い時間をかけて環境に適応しながら、今のような身体になった生物です。それは目に見えない心のはたらきも同じです。ヒトの心の特性は、進化の過程で身体を取り巻く環境に適応しながら獲得してきました。しかし現代社会では、ヒトが本来育ててきた心の特性と、実世界と仮想世界が錯綜する現代の環境とのミスマッチが、さまざまな問題を引き起こしています。子どもたちに見られる不登校、引きこもり、薬物依存や自殺、発達障害などの急増は深刻です。これまでのような個別の対応策でとうてい解決できるものではありません。
著者は、ヒトの本質に迫り、脳と心の発達のメカニズムを、科学的に解明してゆくことを目指しています。生物としてのヒトの心の系統進化は、ヒト以外の動物の行動や脳、心のはたらきを実験的に追究する比較認知科学により、それぞれの生物の進化の過程を知ることができます。系統的にヒトに最も近いチンパンジーと比較すると、ゲノム配列の違いは、1.23% しかありません。これはウマとシマウマの違いと同じ程度です。彼らとの、行動や心の働きの違いには、遺伝子の発現様式に、成育歴などの後天的経験が多様な変化をもたらす生体システム、「エピジェネティクス」の存在が明らかになってきました。ここに発達の多様な軌跡が生まれる要因があったのです。ヒトは、他の哺乳類と比べると、大人になるまでにとくに長い期間がかかるので、さまざまなリスクの回避を親に依存しなければなりません。しかし一方では、環境変化に柔軟に対応できる可塑性をもつメリットもあります。
ヒトの心のはたらきは、胎児のときからすでに学習を通じて発達しています。これは著者自身が出産を体験して実感したことでした。胎児は早くから触覚を持ち、母親の声を聴き分けます。最近の研究で、その心は新生児へと連続して発達してゆくことがわかりました。乳児期には、養育者との身体の濃密な接触が、認知機能発達の大きな要因という「アタッチメント理論」がよく知られています。自分では制御できない不安や怖れを、養育者に触れることで鎮静化し、定常に保つ「ホメオスタシス」を獲得して心身が安定し、新たな環境へと積極的に冒険してゆくのです。その経験は、自立した後々まで重要な意味があるといいます。
また脳の発達の過程には、環境の影響をとくに受けやすい特別の時期があります。脳は、脳内ネットワークの効率を高めるために、ある時期にシナプスを選別して整理をします。この原理を刈込みと呼びますが、それがうまく機能しないと、自閉症や多動性(ADHD)などの発達障害や、統合失調症を引き起こします。それは、シナプス密度がピークになる4歳ころと、刈込みが急激に起きる14~15歳ころで、この時期に不適切な養育による虐待や、いじめなどを受けると、深刻な事態になります。脳内にある、喜びや心地よさを感じる線条体という部位の働きが弱まるので、受けた感受性のダメージが成人した後も脳の発達に大きく影響するのです。脳が集中的に発達するこの時期に、子どもたちにどのような環境を提供してゆくのか。ヒトがAIやロボットと共生する社会となっても、他者との身体と心の交感は欠かせません。ヒトの脳の感受性への深い理解が、人類の未来を決めるのです。「了」