「台湾の日本人」—証言と史料が示す親日のルーツ—2025年10月3日 吉澤有介

喜多由浩著、産経新聞出版、令和4年6月刊  著者は、1960年大阪府に生まれ、立命館大学卒、産経新聞社に入り社会部次長、月刊「正論」編集部次長、文化部編集委員などを経て、現在は産経新聞編集委員。
主な著書に「北朝鮮に消えた唄声・永田弦次郎の生涯」(新潮社)、「韓国でも日本人は立派だった 証言と史料が示す朝鮮統治の偉業」(産経新聞出版)、「旧制高校物語」(産経NF文庫)などがあります。
日本が台湾の領有権を獲得したのは、日清戦争の勝利によるものでした。しかし、当時の台湾は、清国が「化外の地」として放置したままでした。民族も多様でインフラが全くなく、治安は最悪で、匪賊が跋扈している上に、コレラやマラリアが蔓延し、多くのアヘン吸飲者がいて、軍人出身の歴代の総督は手を焼くばかりでした。
そこに内務省衛生局長の後藤新平が着任して、行政全般を改革し、近代化の基礎を確立したのです。戊辰戦争で敗れた逆境を乗り越えた、後藤の手腕は鮮やかでした。現地住民に寄り添って、教育に力を入れ、インフラを整えて産業を振興しました。同じ維新の負け組だった、新渡戸稲造らの優秀な人材を招き、統治を成功に導いたのです。本書では、その日本人たちの献身的な活躍を、確かな史料と証言で綴っています。
特記すべきは、ここにK-BETSの会員である曽田さんと宮地さん、お二人の父君が登場されたことでした。曽田さんの父君の曽田長宗さんは、明治35年新潟県生まれ、旧制一高から東京帝大医学部を卒業、昭和5年から台北帝大医学部教授となり、米国ジョンズ・ホプキング大学にも留学された公衆衛生の大家で、感染症対策の最前線で活躍しました。敗戦後、重病人の引き揚げに尽力し、病院船橘丸で幼い五男を亡くしながら、悲しみを抑えて他の全員を帰還させ、帰国後WHO総会議長を務めました。
宮地さんの父君の宮地末彦さんは、明治39年金沢市生まれ、旧制四高から東京帝大農学部卒、昭和6年に台湾の近代化を推進していた同郷同窓の八田與一のもとで、ダム建設などの実務に当たりました。八田とともにフィリッピンの指導に向かう途中、東シナ海で米軍の魚雷を受けて撃沈されて八田は亡くなり、宮地さんの父君は奇跡的に生還しました。敗戦後も乞われて現地の指導を続け、帰国後は各地のダム建設、港湾の建設に尽力されました。台湾に大きく貢献されたお二人が、K―BETSのお仲間の父君であったことは、会員として誇らしい限りでした。
本書ではさらに、コメの開発などで貢献した磯永吉、ヒノキチオールを発見した野副鉄男などの活躍を挙げますが、ひと際目立つのが「松山」人脈でした。「台湾電力の父」と呼ばれた松木幹一郎は、愛媛県西条市に生まれ、旧制松山中学から三高、東京帝大を出て、台湾の鉄道院で活躍、同郷同窓の後輩、十河信二を招き、島秀雄とともに新幹線の開発を構想しました。また旧制台北高校は、多くの人材を輩出しています。李登輝元総統は、平成19年都内のホテルの同窓会で寮歌を唄いました。「了」

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