重ね地図で読み解く京都の「魔界」  2024年⒓月15日 吉澤有介

小松利彦監修、宝島社新書、2019年7月刊   著者は、1947年東京都生まれ、埼玉大学教養学部教養学科卒、東京都立大学大学院社会科学研究科で博士。専門分野は文化人類学、民俗学、口承文芸論です。著書に「呪いと日本人」(角川ソフィア文庫)、「日本妖怪見聞録」(講談社学術文庫)、「百鬼夜行絵巻の謎」(集英社新書)、「京都魔界案内」(光文社知恵の森文庫)など多数があります。
第50代・桓武天皇は、即位から2年後、それまで約80年続いた都、平城京を放棄しました。平城京には、さまざまなしがらみがあったからです。京都盆地の南西を選んで、長岡京の建設に取り掛かりましたが、新都造営指揮者の藤原種継が暗殺されました。朝廷は直ちに首謀者として、大伴継人を逮捕し、多くの共犯者をあげました。その中に、桓武の弟、皇太子の早良親王も含まれていたのです。早良親王は、無実を訴えて絶食し、自死しました。桓武は実子の安殿親王を皇太子としました。しかし、それから災害が多発し、天皇の母と后が相次いで死去、皇太子まで病に倒れました。「日本後記」に、「早良親王の怨霊の祟り」とありました。これが正史に「怨霊」が登場した最初です。桓武は、直ちに親王の霊を祀って鎮め、長岡京は放棄して、京都盆地の北に移し、「平安京」とします。
桓武は、風水で四方を固めて、延暦13年(794)に遷都しました。しかし、蝦夷との戦いで資金が続かず、工事は中断されて、低湿地の右京は荒れてゆきました。魑魅魍魎の住処となり、都は、異界の怨霊や妖怪が自由に侵入する、百鬼夜行の空間となったのです。
菅原道真の怨霊は凄かった。道真が、左大臣藤原時平の讒言で大宰府に左遷されて2年後死去すると、その直後から、左遷に関わった貴族らが謎の死を遂げ、清涼殿に落雷があって、多数の死者が出ました。朝廷は、道真を天神として祀りました。北野天満宮です
保元の乱で敗れ、讃岐に流された崇徳院は、大天狗となって復仇すると誓い、舌を咬み切って崩御すると、皇族や貴族の死去が続き、大火災で都が焼けて大混乱になりました。
平将門は、五条河原で曝された首が、復仇を誓って関東に飛んで帰ったといいます。
怨霊は、その由来も名も明らかでしたが、目に見えない怪奇現象は、物の怪といいました。怨霊も物の怪も、陰陽師の出番でしたが、鬼や天狗には、豪勇の武者が呼び出されました。鵺退治の源頼政や、大江山の酒呑童子を征伐した源頼光がいました、その頼光の刀は、「童子切安綱」と呼ばれ、現在は国宝として、東京国立博物館に所蔵されています。
本書では、平安時代と現在の京都の地図を重ねて見ることができます。洛中では、平安京の内裏は、現在の神泉苑の北側を占め、朱雀大路が南下して、東寺と西寺を従えた羅城門に至りました。道長の邸土御門殿は、現在の御所の東北の角で、近くには安倍晴明がいました。洛東は、五条橋で鴨川を渡り、東山の清水寺に向かうと一帯は葬送地の鳥辺野で、六道の辻がありました。参議の小野篁が、毎夜その井戸から冥府に通い、閻魔大王に仕えた話は有名です。あの世とこの世の境界だったのです。洛北では、天狗のいた鞍馬や貴船があり、紫式部の供養塔がありました。洛西は、東の鳥辺野と並ぶ風葬の地、化野があります。洛南にも多くの伝承がありました。京都は、まさに魔界の都だったのです。了

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