「雪と暮らす古代の人々」  2024年⒓月7日 吉澤有介

相澤 央著、吉川弘文館、2024年2月刊   著者は1972年、新潟県生まれ、新潟大学大学院現代社会文化研究科で博士。現在は、帝京大学文学部教授です。著書は「越後と佐渡の古代社会」(高志書院)、「地域における調庸物の収取と運送—越後の鮭を例に—」(帝京史学)などがあります。
雪の季節になると、地域によって人の思いはさまざまです。雪が殆ど積もらないような暖国に暮らす人々は、雪を花にたとえて、飲食や音楽を楽しみながら、雪景色を愛でたりしますが、毎年幾丈も積もる雪国の人々の思いと苦労は、それどころではありません。
江戸時代後期、越後塩沢に生まれた鈴木牧之は、「北越雪譜」で、人々の雪による千辛万苦の暮らしを詳細に綴り、当時のベストセラーになりました。これは時代を遡って、古代の奈良・平安時代にも、同じような状況があったことでしょう。しかし、古代の雪国の記録は、殆どありません。著者は、都の貴族たちの日記や歌を丹念に探り求めました。
大伴家持は、天平18年(748)に越中国の守として現在の富山に赴任しました。5年目の正月は、積雪4尺(1,2m)の大雪でした。家持は宴会で。年の初めは雪を踏んで集まるのも良いものだという歌を詠み、万葉集に載せました。翌日も介の館に、腰まで埋もれて難儀しながら集まっています。その2年後の正月には、平城京が1尺2寸(36㎝)の大雪になり、帰京した家持は、珍しいから踏まないでおこうと詠みました。都人の感覚です。
紫式部は、父の藤原為時に従って、長徳2年(996)に越前国に下向しました。一冬だけでしたが、都の雪とは大違いで、鬱陶しいと言って、雪には親しめなかったようです。
古代の日本の気候は、古墳時代の5・6世紀は、湿潤・冷涼でしたが、次第に乾燥が進み、平安前期の(9・10世紀)には、温暖化していました。この時代の冬の様子は、「小右記」や「御堂関白記」などで知ることができます。平安京では、一冬の平均降雪日数は、4,5日で、多い年では18日もありました。寛仁2年(1018)に道長は、積雪5寸(15㎝)、ツララが5尺(150㎝)にもなったと記しています。長久元年(1040)には、積雪は1,2尺(39㎝)もあり、後朱雀天皇は、早朝に雪見をされました。天皇の指示で、恒例の雪山をつくりましたが、多くの公卿は、雪で出仕できませんでした。それでも、「初雪見参」の儀式が、筵を敷いて行われています。出仕した官人に、禄物が下賜されました。
この頃には、地方でも大雪があり、北陸道や美濃でも被害が続出しました。比叡山では、5尺(150㎝)も積もって、僧房が倒壊し、多くの下人が死亡しています。天長7年(830)正月、出羽国秋田城に大地震があり、建物が倒壊し、多数の百姓が死傷した被害が出ました。吹雪で、官舎が雪に埋もれ、被害の確認もできないという報告があります。
東北の蝦夷との戦いでも、征夷群は吹雪で食糧も届かず、寒さと飢えに苦しみました。
またある年は季節外れの大雪で、農作物に大きな被害が出ています。雪による交通障害も多発して、各地からの調物が運べず、春になってから納めて良いとされました。
雪国では、カンジキが多く用いられました。菅原道真は、防寒着に皮衣を着ていたようですが、一般の民衆は、ただひたすら春を待っていました。歌が多く遺されています。[了]

カテゴリー: サロンの話題 タグ: , , , , , パーマリンク