「在野と独学の近代」—ダーウィン、マルクス、南方熊楠、牧野富太郎まで—2024年11月27日 吉澤有介

志村真幸著、中公新書、2024年9月刊、 著者は1977年、神奈川県生まれ、慶應義塾大学文学部卒、京都大学大学院人間・環境学研究科で博士(人間。環境学)。現在は慶應義塾大学文学部准教授。南方熊楠顕彰会理事。著書に「日本人の誕生」(勉誠出版)、「南方熊楠のロンドン」(慶應義塾出版会)ではサントリー学芸賞。「熊楠と幽霊」(集英社インターナショナル新書)他多数があります。
現在では、科学や学問の研究者は、大学や研究機関などで担うものと思われています、しかし、かっては独学のアマチュアたちこそが、学問の中心だった時代がありました。
大学教授などの身分も、給料ももらわずに、自分に関心のあるテーマを自由に追い求め、野に在って大きな成果を挙げていた人たちがいたのです。明治から昭和初期にかけて活躍した南方熊楠(1867~1941)は、よく知られています。生物学や民俗学を独学で学び、一度も大学で教えたことはなく、博物館や研究所にも勤務しませんでした。19世紀末に、8年もロンドンに留学しながら、オクスフォードやケンブリッジにも在籍していません。
当時はまだ、大学はごく少なくて国の関与もない存在でした。学問は完全には制度化されてはおらず、大学では専門的な知識より、人間性が重視されていたのです。大学教授の地位は低く、給料も僅かで、明治の日本の東京大学などとは、全く違っていました。学問を志すには、独学しかなかったのです。そのインフラとして、雑誌や図書館、博物館、動物園、植物園などが整備され、人々はそこで学んで論文を投稿し、互いに交流しました。
ダーウィンは、生活のために研究を職業としたことは、一度もありませんでした。父は開業医で、陶器のウェッジウッドの縁戚となり、莫大な財産があって働く必要はなかったのです。ロンドンで植物学者のヘンズローと親しく交わり、熱烈な信奉者になって博物学者を目指します。医師を継いだ兄の紹介で、地質学会や地理学会に出入りしました。全くのコネ社会だったのです。熊楠は、早くから「進化論」を読み、深く影響されました。
マルクスの祖父はユダヤ教のラビ、父は弁護士でした。ボン大学で法律を学び、イエナ大学で学位を得ましたが大学に職はなく、ロンドンの新聞社に入りました。しかし、ここで裕福なエンゲルスと出会って援助を受け、実家からの仕送りもあって、大英博物館のリーデングルームに30年以上も住み着き、ノートをとって「資本論」を書き上げました。
大英博物館のリーデングルームは、36の机が放射状に並び、417席ありました。本は閉架式でしたが、辞書、事典、名鑑などは自由に読めました。熊楠は、連日7~8時間も通いつめ、書写に励みました。孫文も8カ月の在英中に70回も通っています。
常連たちが交流しているうちに、19世紀半ばになると、研究発表の場として学術雑誌が登場してきました。有名な「ネイチャー」は1869年の創刊です。編集者のロッキャーは、学歴はなく、アマチュアの天文学者でした。後に大学講師になりましたが、もとは在野の研究者だったのです。最先端の科学誌で、一般の読者への啓蒙を目指し、購読者からの投稿を歓迎しました。熊楠は51編の論文を載せ、一説には史上最多ともいわれています。
本書では、さらに牧野富太郎、柳田国男や、三田村鳶魚まで広く論考していました。「了」

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