「もののけの日本史」—死霊、幽霊、妖怪の1000年– 2024年11月7日 吉澤有介

小山聡子著、中公新書、2020年11  著者は、1976年茨城県生まれ、筑波大学第二学群日本語・日本文化学類卒、同大学院歴史・人類学研究科で博士(学術)。現在二松学舎大学文学部教授。専門は日本宗教史です。「護法童子信仰の研究」(自照社)、「浄土真宗とは何か―親鸞の教えとその系譜」(中公新書)、「往生際の日本史-」(春秋社)などの著書があります。
古代の日本では、モノノケは正体のわからない死霊、またはその気配を指していました。モノノケは、生前に怨念をいだいた人間に近寄り、病気にさせ、時には死に至らせるものとして怖れられていたのです。栄華を極めていた藤原道長も、モノノケによってしばしば錯乱状態になっていました。同時代の貴族の日記で、知ることができます。しかし道長自身の日記「御堂関白記」には、ほとんど書かれていません。書くこと自体が恐ろしかったのでしょう。モノノケは、他の貴族たちにも身近にある恐ろしい存在でした。対処法としては、僧を呼んで祈祷させ、自分たちでも調伏しようとしました。
10世紀の貴族社会では、病気の治療にまず陰陽師によって原因を占いました。原因がモノノケとされると、僧たちが加持や修法、読経によって調伏し、正体を白状させるのです。道長を脅かしたモノノケの正体は、実に多様で、入内した娘たちと帝をめぐる数々の事態がありました。モノノケの調伏にはヨリマシが用いられていました。日頃から憑依されやすい女房や女童が選ばれ、僧侶の近くに侍って憑依すると、次々にモノノケの言葉を口走り、僧侶が失神することもありました。「栄花物語」は歴史物語なので、そのまま歴史的事実とは言えませんが、実にリアルに記述されています。三条天皇がモノノケによって眼病になられたとき、冷泉院の霊が女蔵人に憑依して、供養を要求しました。ここでは調伏でなく、供養の形で対処しています。「小右記」に詳しく語られていました。
「源氏物語」にも悪さをする多くの霊が出ていました。六条御息所の生霊や死霊の出現は、よく知られています。御息所の霊は、自分を責め苦しめた調伏でなく、成仏のための供養を源氏に哀願しました。しかし光源氏は自己本位で冷たく、一向に聞き入れません。紫式部の視線は見事でした。霊と人間は、ヨリマシを通じて交流することもできました。時には駆け引きもし、騙されたりもしています。社会を安定させる一面もあったのです。
目に見えないとされたモノノケの姿も、次第に形を現すようになってきます。三条天皇に取り付いたモノノケは、天狗の姿だったとされました。「今昔物語」には、油甕の形で出てきます。後白河法皇が描かせた絵が未完のうちに崩御され、法皇の供養のために、その絵の上に僧たちが、目鼻口のない三本指の鬼のような異形のモノノケを描き加えました。日本最古のモノノケの絵姿とされています。中世になると、モノノケの調伏の手順が確立します。ヨリマシも職業的になって、褒美が出るようになりました。
モノノケは、近世になると、幽霊とも呼ばれるようになり、能には多くの幽霊が登場します。怪談が庶民の娯楽の対象になりました。現代では、アニメ「もののけ姫」が大ヒットしました。妖怪とも重なる超人的なパワーが、癒しとして求められているのです。「了」

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