林 菜央著、朝日新書、2024年8月刊 著者は、日本人唯一人のユネスコ世界遺産条約専門官です。上智大学、東京大学大学院で古代地中海・ローマ史を専攻。フランス政府給費留学生としてパリ高等師範学校研究員、パリ・ソルボンヌ大学で修士。さらにロンドン大学で持続的開発を学んで、在フランス日本大使館の文化・プレス担当のアタッシュ。2002年にユネスコに勤務し、博物館プログラム主任などを経て、現職に就任しました。彼女の語学は、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語、イタリア語に通じ、著書に「ユネスコ博物館」(雄山閣)などがあります。
「世界遺産」の生まれたきっかけは、1960年代のエジプトのアスワンハイダムの建設によって、ヌピア文明の神殿が水没の危機に瀕したことでした。それまでも第二次大戦で、ナチスドイツが略奪した膨大な美術品を回収、返還する問題もあり、当時フランスの文化大臣であった文豪マルローは、国や民族を越える人類全体の財産として、遺産の保護を提唱しました。そこでユネスコは、「世界遺産条約」を採択し、1975年に発効したのです。
世界遺産には、「顕著な普遍的価値」を有する文化遺産、自然遺産、複合遺産の大きな区分があり、さらに細かく、産業遺産、文化的景観遺産などのカテゴリーがあります。
著者の仕事はそれらの遺産の保全修復状況を査察し、その国の中央政府や住民たちと話し合いを持ちながら支援してゆくことでした。当然ながら、現地への出張が多くなります。
2018年には、世界遺産であるベトナムの世界最大の洞窟を査察しました。観光客のためにケーブルカーを建設するという情報が入ったのです。7月の雨季でしたが、チームで密林の中をヒルに襲われながら3日間歩くと、巨大洞窟は飛行機が入るほどの大きさで、テントを張り、泳いだりボートに乗って奥まで行きました。長野県生まれで山歩きに慣れていたため、できたことでした。100ページの報告書で、ケーブル禁止を勧告しました。
キングコングのロケをした遺跡も査察し、セットの除去を勧告して確認しています。
アラブ地域は、世界遺産の登録が少ないものの、文明発祥の地です。2015年のラマダンの時期にエルサレムの旧市街を訪れたところ、すぐ後ろでイスラエル警察が、パレステイナ人の男性を射殺しました。著者は、人の体から血が噴き出したのを見て驚愕します。
アフリカのケニア山国立公園では、野生動物の周期移動のために、保護区域の間をつなぐ「ゾウの回廊」がつくられました、長い旱魃などに大きな成果を発揮しています。
世界遺産の登録区域に、ダムが建設されることが多くなってきました。持続可能な開発と遺産の保護は、複雑な関係になります。ラオスの古都ルアンパバーンの付近の、メコン川の上流に、新しい水力発電所を建設するという情報が入りました。自流式ダムですが、もし洪水や地震などで決壊したら、古都の遺跡に甚大な被害が出る恐れがあります。著者は現地を査察し、影響評価を報告しましたが、現在ラオス政府との争点になっています。
世界遺産の経済効果は、観光産業に大きく貢献します。しかし、観光と遺産管理のバランスは微妙です。また気候変動は遺産保護の脅威になっています。そんな事態に私たちはどう向き合ってゆくのか、著者のグローバルの活動は、まさに驚くべきものでした。「了」
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