「つなわたりの倫理学」—相対主義と普遍主義を超えて—2024年4月20日 吉澤有介

村松 聡著、角川新書、2024年2月刊    著者は1958年東京都生まれ、上智大学哲学科卒、同大学院修了後、ドイツ・ミュンヘン大学留学。横浜市立大学准教授を経て現在は早稲田大学文学学術院文化構想学部教授。専門は近代哲学、主に徳倫理に基づく倫理学、生命倫理などの応用倫理学で、著書には「ヒトはいつ人になるのか、生命倫理から人格へ」(日本評論社)などがあります。
倫理というと、「しなければならない」、あるいは「してはならない」ことだと考えてしまいますが、これは倫理思想を考えた古代ギリシャとは発想が違うものでした。本来は「何がしたいのか」を問うものだったのです。この古来の倫理を覆えして、近現代の「しなけければならない」義務的な倫理観を作り上げたのがカントでした。窮屈極まりない倫理になってしまったのです。本書では、古代ギリシャの倫理観に立ち戻って、「しなければならない」倫理ではなく、「したい」倫理へと、倫理思想の原点復帰を目指しています。
倫理思想の原点にあるのは、幸福への問いでした。アリストテレスは、「ニコマコス倫理」の中で、幸福こそ私たちのすべての行いが求めているものと断言しています。ではどうすれば幸福になれるのか。そのためには私たちは何を求めているかを知らなければなりません。さらに、私たちの本性が何であるかを知らなければならない。人間は社会的動物で、共同生活が人間の本質でした。人間は動物と同じ欲望を持ちますが、理性と分別を持って制御します。理性的なものは調和して美しい。ピタゴラスは、弦楽器の音の高低の比率から音階を発見しました。調和は精神と身体の理解にも通じ、美的感覚を生みました。
人間にとっての幸福は、人間の本性や本質が実現され、他者との共生のうちで、理性に制御され、体と心が調和した生です。どうすれば実現できるのでしょうか。そこに登場したのが徳(アレテー)です。心の姿勢・方向性で、周囲に心地よさを与え、ユーモアがあります。「しなければならない」の窮屈な倫理を脱した、おおらかな倫理観なのです。
古代ギリシャの倫理思想の根底には、人間に対する信頼と肯定があり、自愛の原理がありました。カントはそれをエゴイズムとして否定したのです。倫理と自愛が両立しなくなりました。自分への信頼が、人間活動の原動力ですが、自愛に対する現代の倫理思想は、迷いを抱えたままです。生物の生き残り戦略の「利他主義」などへの洞察もありません。
倫理思想を大別すると、カントの義務論、アリストテレスの徳倫理、そしてベンサムやミルの功利主義の三つになります。大きな相違は、行為に対する観点の違いにあります。安楽死問題でみれば、消極的安楽死で苦痛に耐えかねている患者に、医療者の治療義務はどう応えるか。患者の自己決定を重視すれば、それも義務であり、どちらの義務も正当化されます。功利主義は苦痛と、医療費などを考慮しても、結論は出ません。徳倫理は行為に注目します。安楽死を望む患者を前にして、医療者はどうあるべきかを問います。患者に対する誠実さ、深い思慮で、正義と慈愛に照らして行為の是非を考えることなのです。
現実の選択には、悪いことしかない場合、ウソをつかなければならない事態もあります。状況によって、たとへ正解でなくとも、ギリギリの隘路を探るのが徳倫理でした。「了」

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