「武蔵に尋ねよ」-剣豪・宮本武蔵が極めた兵法、芸術、人生哲学-2026年1月18日 吉澤有介-

福田正秀(文)・藤森武(写真)共著、クレヴィス社、2025年⒓月刊 著者の福田正秀は、1948年長崎県生まれ、歴史研究家。放送大学大学院文化科学研究科修士課程修了。専門は近世日本史で宮本武蔵を研究。主著に「宮本武蔵研究論文集」があります。熊本県在住。藤森武は1942年東京生まれ、東京写真短期大学(現・東京工芸大学)写真技術科卒、在学中より土門拳に師事、フリーランスとして、写真集に「秘仏十一面観音」、「国宝・重文の茶室」、「隠れたる仏たち」ほかがあります。2025年逝去。
宮本武蔵は、今から約450年前の安土桃山時代から、江戸時代初期までの大転換期を、兵法一筋に生きた人物です。二刀流の開祖として、数々の勝負に無敗の剣豪でしたが、近年の研究で、その実像は偉大な文化人・芸術家・哲人であったことがわかってきました。
その足跡を辿ると、兵法家だけではなく、城下町の町割り(都市計画)を担当したり、大名庭園を造営したり、後に重文に指定された水墨画や工芸品を多く遺していました。また名著「五輪書」は、世界各国に翻訳されて、多様な分野に大きな影響を与えています。
武蔵を語る確かな史料に、養子伊織が武蔵没後9年に建てた顕彰碑(小倉碑文)があります。武蔵は、天正10年(1582)、羽柴秀吉に三木合戦で滅ぼされた播磨の別所家の重臣、田原家定の次男に生まれました。父は敗れた後、印南郡米田村で帰農していました。幼少時に、父と同じ赤松氏の同族で美作国の兵法家、新免無二の養子になりました。養父は将軍家にも知られた剣豪で、武蔵(幼名弁之助)は、厳しく鍛えられました。ところが武蔵は幼年ながら、養父の兵法に不満で、常に誹謗しました。あるとき、養父は怒って突然、武蔵に小刀を手裏剣に打ちましたが、武蔵は際どく避けたといいます。恐るべき早熟でした。養父は手に余って、9才の武蔵を勘当したので、母方の叔父に身を寄せました。
13才のとき、村に来た兵法家と初めて決闘しました。竹矢来の観衆の前で、武蔵は杖を持って真剣の相手に素早く襲い掛かり、打ち倒しました。ここで勝負の真理を悟ります。
武蔵は諸国を回り、29才までに60度以上も決闘して無敗でした。常に木刀で闘い、京では吉岡一門を滅ぼし、巌流島では佐々木小次郎に勝ちました。小次郎の刀は、後に復元すると全長130,5cm、 武蔵の木刀は、126,7cmで、かえって短く、一撃で決しています。
武蔵は、戦場でも戦いました。初陣は九州の関ヶ原、豊後の石垣原合戦で、東軍の黒田勢に、勘当を許された養父とともに参陣し、一番乗りしています。大坂夏の陣でも、徳川方の水野勝成の客将でした。吉川英治の小説はと違って、一貫して徳川方だったのです。
泰平の世になると、武蔵は方々から招かれましたが自らは仕官せず、養子二人を育て上げ、徳川譜代の大名に仕官させて、治世に参与しました。三人目の養子が甥の伊織で、明石の小笠原家に仕え、20才で家老に登用されています。これはまさに兵法の極意でした。
武蔵は、熊本細川藩に賓客として招かれ、藩主忠利以下、藩を挙げて武蔵に学びました。武蔵は「二天道楽」と号して、著作や書画・工芸の穏やかな日々を過ごしましたが、正保2年(1645)、静かに亡くなりました。享年64、偉大なる天才の生涯でした。「了」

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