「神社の古代史」 2025年10月31日 吉澤有介

岡田精司著、ちくま学芸文庫、2025年4月第2刷刊  著者は、1929年東京生まれ、国学院大学文学部史学科卒、「古代王権の祭祀と神話」で大阪市立大学文学博士。三重大学教授でした。著書は「神と祭り」(小学館)、「京の社、神と仏の千三百年」(ちくま学芸文庫)など多数があります。2019年没。
古代の日本では、あらゆるものに神霊が宿っていると考え、多様な神格が存在していました。神は人里には住まず、遠い清浄な山の奥にいて、祭りの日だけやってきました。神は目に見えません。偶像崇拝はなく、神と死者の霊とは別で、死者の霊が神として祀られることはありませんでした。そこに稲作の信仰が根を下ろしたのです。
神は神秘的な山に住んでいるので、岩石が磐座として神の依り代となり、鳥獣は神の使者とされていました。そのお山は神体山と呼ばれ、二つのタイプがありました。まずは富士や白山など、高くて秀麗な仰ぎ見る山です。もう一つは神南備山で、奈良の三輪山など人里に近く、人々の生活に恵みをもたらす、ありがたいお山でした。
古墳時代の終わり頃、お山を祭る場所が定まり、人々の組織ができると、祭場を造るようになりました。神社の成立です。初めは仮屋で常設の社殿は後のことでした。
三輪山の「大神神社」は古い形を遺しています。今も本殿はなく、お山に供物を並べる施設しかありません。山奥には多くの磐座があり、蛇信仰の説話がありました。
記紀によると、三輪氏の祖神オオモノヌシが鎮座していましたが、天孫族へ国譲りしたとあり、出雲国造の神賀詞では、大王家への服従が今も語り継がれています。
「伊勢神宮」は、もともと大王家だけの守護神で、一般は立入り禁止の神社でした。土着の渡会氏の神「下宮」が先にいて、後に新来の「内宮」に仕えたのです。
「宗像大社」古代の対外航路の守護神で、沖ノ島などを含めて祀られました。地方神の三柱の女神であったのに、大王家からは異例の扱いを受けていました。外交や外征に海人集団の協力が必須だったからです。沖ノ島は「海の正倉院」となりました。
「住吉大社」は、住之江の津の神から、大和王権専属の航海守護神となったので、これも民衆とは無縁の神です。神功皇后の伝承にも登場し、大きな働きをしました。
「石上神宮」は、霊剣フツノミタマが祭神でした。この霊剣は。オオクニヌシの国譲りのときに活躍し、神武東征でも神武の危機を救ったといいます。和泉の王族が、千振の剣を奉納したとあり、古くから王権の武器庫で、後に物部氏が祀り、王権の遠征時に活用されました。百済から伝来した七支刀が、遺っていたのは奇跡でした。
「鹿島・香取神宮」は、常陸国風土記に詳しい、東国の鎮守です。始まりは石上神宮のフツノ神とタケミカヅチを奉じた、物部氏の東国遠征でした。古くは香取が斎主で、鹿島を祀ったようです。鹿島神宮は北向きで、蝦夷征討軍の最前線基地でした。
律令はすべての神々を序列化しました。古代には氏神が、同族の守護神として祭られてきましたが、氏神と祖先神は同じなのか、学者の議論は分かれています。「了」

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