「戦国の食術」—勝つための食の極意-2025年11月5日 吉澤有介

永山久夫著、学研新書、2011年11月刊  著者は、1932年福島県生まれ、食文化史研究家。西武文理大学客員教授、総合長寿食研究所所長、日本の伝統的食文化を研究して、和食による健康・長寿を提言、NHK大河ドラマでも食膳を再現してきました。食文化史・長寿食の第一人者です。著書に「日本人は何を食べてきたのか」、「日本古代食事典」、「世界一の長寿食(和食)」、「たべもの古代史」、「たべもの戦国史」など多数があります。
戦国時代の武将たちは、実によく食べていました。生き残りがかかっていたからです。食術の上手い武将ほど成功していました。秀吉は、子供のころからドジョウを食べ、魚好きでアミノ酸を多くとり、セロトニンで性格が明るく、常に前向きでついに天下を取りました。家康は、徹底して麦飯を食べ、ムギの炭水化物とカルシュウムやビタミンB1で忍耐強く、冷静に手堅く生きて天下を取っています。この二人に正反対だったのが信長でした。せっかちで湯漬けを好みました。現代のお茶漬けです。菜として焼き味噌は取りましたが、食事の時間を惜しんで出陣を急ぎ、一時は成功しましたが、気性が荒くて家臣たちにも厳しく当たり、その性格のために命を失いました。
秀吉が天下を取ってからの食膳としては、天正十八年(1590)、小田原城を落とし、さらに奥州も平定して、京都に凱旋したときに、京都の留守役だった毛利輝元が、戦勝を祝って自邸で饗応した献立が遺っています。一式三献から始まって、本膳は七之膳まである豪華なものでしたが、やはり魚や海産物が主に並んでいました。
戦場での秀吉の兵糧策は、まさに天才的なものでした。天正十一年(1583)の賤ケ岳の合戦では、大垣城にいた秀吉は、柴田勝家方が陣を敷く前に打ち破るために、直ちに賤ケ岳に急行し、軍勢は行程約50㎞を5時間で走破しました。「川角太閤記」によると、道筋の庄屋・百姓に米蔵を開いて飯を炊かせ、馬糧も用意させて、金は10倍払うと約束しました。飯は空俵に塩を振って詰め、兵たちに手拭いに包んで、好きなだけ取らせるなど、具体的に指示したので、軍勢の戦意は倍増して大勝しました。
加藤清正は、干し飯と干し味噌を入れた「腰兵糧」、現代の「腰弁当」を重視し、三日分を持つことを厳命しました。武田信玄の強さは、「ほうとう」にありました。時には猪肉も入れたようです。伊達政宗は、味噌を重視しました。朝鮮出兵で、大陸の暑さで他藩の味噌が腐敗したのに、政宗の味噌は変質せず、香も味も良くて、他藩に分け与えて評判になりました。青葉城では日本最初の大規模味噌醸造を行っています。飢饉のときも味噌は、草木を食べて当たらず、空腹を凌ぎました。黒田官兵衛は、戦場で「面桶」というランチボックスを発案し、これが後に「弁当」になりました。
戦場食では梅干が一番で、鰹節、搗栗、塩の丸薬、芋の組縄などがあり、黒ゴマ、黒豆、そば粉、人参などを鶏卵で丸めた「兵糧丸」は、各藩で秘法とされました。歴戦の武将ほど、食に気を使い、「武士めし」で、一般人よりも長生きしたのです。了

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