「足軽の誕生」—室町時代の光と影—2025年9月24日 吉澤有介

早島大祐著、朝日新聞出版2012年10月刊 著者は、1971年京都府に生まれ、京都大学大学院文学研究科で博士(文学)。京都女子大学准教授。(現在は関西学院大学教授)。専門は日本中世史。著書に「首都の経済と室町幕府」(吉川弘文館)、「室町幕府論」(講談社選書メチエ)などがあります。
鎌倉幕府が滅亡して、御醍醐天皇の建武政権となりましたが、すぐに足利尊氏がこれを打ち破り、新たな幕府が生まれました。尊氏は、吉野に逃亡した御醍醐の南朝に備えるために、この幕府を京都に置くことにして、室町時代が始まりました。その結果、京都の地に武家と公家が同居する、久方ぶりの政治的首都が生まれたのです。
その政治と経済を主導したのは、新興の武士たちでした。公家は南北朝動乱の最中で、荘園の実権を守護に握られて、極度に貧窮していました。室町幕府は荘園の回復を約束しながら、配下の守護は荘園の利権押収を続け、富を奪って放蕩の限りを尽くしていました。南北朝動乱を平定した三代将軍義満は、明への朝貢貿易で莫大な利益を得て、金閣寺などを創建しました。しかし息子の義持になると、朝貢貿易を中止したので財源を失い、朝廷への出費や、朝鮮との確執に飢饉まで重なって、幕府の財政は一変します。守護や商人に課税する都市型財政へと転換し、地方支配は守護に任せることになったのです。遊興に明け暮れた守護の大名たちは、次第に朝廷や公家の文化に目覚め、武家の実務官僚までが和歌などの教養を持つようになってきました。
室町時代の国の骨格は、このように固まりましたが、やがて将軍家や守護に家督相続の争いが生じ、荘園の在地領主にも及ぶと、土一揆や大乱が続いて、ついに花の御所も焼失します。乱が収束しても跡地は放置され、毎夜盗賊が集まり、喧嘩や博打の末に人を殺して捨てていました。彼らの多くは応仁の乱で京に呼び寄せられた兵士だったのです。足軽の誕生でした。以前にも、戦には中間・小者などの郎党が下級兵士として働いていましたが、応仁の乱で大量に出現した足軽の出自はさまざまでした。
その一つが京都近郊の荘民で、本来の領主でなく幕府の武家の被官となって身を立てる傾向が一般化して、足軽となっていました。下剋上の機会を狙ったのです。家督争いや地域紛争に敗れて没落した牢人も、京に流れ込んでいました。没落した貴人の家族の例では、森鴎外が翻案した「山椒太夫」に出てくる、安寿と厨子王の物語がありました。徳政一揆で京へ逃げ込んだ農民もいました。著者は乏しい史料を読み解いて。大量の足軽を生み出したのは、室町時代の社会構造そのものだったといいます。
幕府では、侍所が京都の治安、警備に当たっていましたが、その目付であった骨皮道賢は、都の悪党を率いて警察業務を行っていました。盗賊の挙止をよく知っていたからです。洛中には浮浪の徒による悪のネットワークがありました。室町の社会は、花の御所とならずものたちが同居する時代だったのです。光があるから影ができた。埋もれていた史料から、混沌とした社会を探る歴史学がここにありました。「了」

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